『ボヤージュ・オブ・タイム』 天地創造を担う母なる神

 『天国の日々』『聖杯たちの騎士』などのテレンス・マリック監督の最新作。

テレンス・マリック 『ボヤージュ・オブ・タイム』 瞳のなかの虹彩は宇宙の彼方の光にもよく似ている。

 この作品は誰が決めたのか一応ドキュメンタリーということになっているらしいのだが、宇宙の起源とか生命の誕生という誰かがどこかで撮影できるものではないものを描いていくわけで、記録映画というジャンルからはほど遠いものになっている。
 すでに『ツリー・オブ・ライフ』において一部そうしたものは描いているけれど、この映画はテレンス・マリックが40年来温めてきた企画ということで、派生的にできあがった『ツリー・オブ・ライフ』のほうが先に公開されたということのようだ。描写にはよく似ている部分もあって、ブランコのシーンはまた登場するし、庭の木の描写は『ツリー・オブ・ライフ』でも使われたものを流用しているように見える(ウィキペディアの記載では一部流用があるとのこと)。

 日本語版では中谷美紀がナレーションを務め、マリックらしい神への祈りのような言葉が連ねられていく。ちなみに作品冒頭では道元禅師の「世の中は 何にたとえん 水鳥の嘴振る露に 宿る月影」という和歌が掲げられる。この導入は日本版独自のもので、各国で違うバージョンが公開されているとのこと。中国では道教の教えが、アラブ圏ではコーランの言葉が、インドでは「Brahma Vishnu Shiva」というヒンズー教の神々の名前が挙げられるらしい。映像に母国語でのナレーションを合わせるというのもマリック監督の意図とのこと。字幕を読むのではなくて映像と音で体験させることを意識しているのだろう。

 この作品では「母」とか「あなた」とか呼びかけられるのは神のことなのだろうと思うのだけれど、キリスト教圏というか一神教を信奉する諸国の映画で、神が「母」のイメージで語られるのは珍しいような気もするのだがどうなのだろうか? 母なる大地とかいった言い方はあるけれど、ここで呼びかけられているのは宇宙が誕生する前の暗闇のなかをさまよっていたという存在なのであり、地球が誕生する前から存在している“何か”なのだ。
 マリックは特定の宗教についてというよりももっと普遍的なものを想定しているのかもしれず、すべてを生み出した元となったものはやはり「母」ということになったということなのだろうか。マリックの連ねる言葉は説明的ではないからそうした疑問に対する回答はないのだけれど、そんなことをぼんやり考えることになった90分だった。
 世界を見つめる瞳の描写から、その瞳の網膜のなかに入り込み、身体の内部のCGらしき映像、それが宇宙の起源のビックバンへと重ね合わせられたりする。ミクロコスモスとマクロコスモスとが照応するといった華厳哲学のようなものもほんのり感じさせたりもするもののそれ以上の展開は感じられず、『ツリー・オブ・ライフ』の二番煎じとも……。

テレンス・マリックの作品
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Date: 2017.03.18 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『聖杯たちの騎士』 人生は解けないパズル

 『天国の日々』『トゥ・ザ・ワンダー』などのテレンス・マリック監督の最新作。
 原題は「Knight of Cups」で、通常「カップの騎士」などと呼ばれるタロットカードの1枚のこと。

テレンス・マリック 『聖杯たちの騎士』 ルベツキの撮影した映像はとても美しいのだけれど……。

 この作品もテレンス・マリックの自伝的なものを含んでいるらしい。『ツリー・オブ・ライフ』にも描かれていた弟の死や頑固な父親といった背景は、この作品とも共通しているようにも感じられる。妙に曖昧な言い方にならざるを得ないのは、物語がはっきりとわかるようなものではないから。すべてが過去から振り返ったイメージのように展開していくのも『ツリー・オブ・ライフ』以来、より一層徹底化してきている。
 主人公リック(クリスチャン・ベイル)はハリウッドで成功した脚本家という設定になっていて、夜な夜なパーティー三昧で過ごしていても物足りないのか「ここではないどこか」を求めて彷徨っていく。タイトルにもあるようにリックは騎士とされていて、女性が求めるべき宝(=聖杯)とされている。
 そのようにして出会う女性が6人いて、現れては消えていく。最後の女性を演じるのがナタリー・ポートマンで、それによってリックが新たなスタートを切るつもりになったということでは、彼女によってリックは救われたということなのかもしれない。

『聖杯たちの騎士』 主人公リックは遍歴の末にある女性にたどり着く。その女性を演じるのはナタリー・ポートマン。

 ナレーションはリックに対して「聖杯を探索するために遣わした」などと言っているのだから、語り部となっているのは神なのかもしれない。そして神に祈るようなリックのつぶやきや、女性との想い出の時を中心にして、エマニュエル・ルベツキの撮影した美しい映像が展開していく。
 監督独自のスタイルがあるというのはいいのかもしれないけれど、どの作品も同じようなものに見えてしまう気もする。『聖杯たちの騎士』のなかでも、海辺でリックが女性と戯れるイメージも、パーティーで前後不覚に陥ったりホテルにふたりの女性を招いていちゃつくという怠惰な生活も、すべてが同じような美しいイメージのなかに収まってしまうのはどうなのかとも思う。

 というわけでエンターテインメントを求める人は遠慮したほうが無難な作品で、上映開始後15分くらいで退出した観客もいた。さすがに早すぎるだろうとそのときは思っていたのだけれど、多分15分観ても2時間観てもあまり変わりがないとも言える。すでにその時点で弟の死とか父親の存在のことは示されていて、あとは代わる代わる新しい女優が登場してくるだけだから。中盤のケイト・ブランシェットとか最後のナタリー・ポートマンには出会えないけれど……。
 「人生は解けないパズル」なんてセリフがどこかにあったような気もするのだけれど、どういう文脈だったかは忘れた。ちょっと前(昨年末)に観た作品だからかもしれないし、緩急のないイメージ展開に夢見心地だったのかもしれない。そんな人生訓がピッタリとはまるかどうかわからないけれど、スッキリした気分になる作品ではないような気がする。

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Date: 2017.01.03 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

テレンス・マリック監督 『トゥ・ザ・ワンダー』 “祈り”としての映画

 テレンス・マリックは“生きる伝説”などと言われる。20年もの沈黙の前に撮った『地獄の逃避行』『天国の日々』の2作品が決定的なインパクトを残していたからだ。1998年の『シン・レッド・ライン』で映画界に復帰を果たし、この作品は第6作目。
 出演はベン・アフレック、オルガ・キュリレンコ、レイチェル・マクアダムス、ハビエル・バルデム。撮影は『天国の口、終りの楽園』『ツリー・オブ・ライフ』のエマニュエル・ルベツキ。アメリカの大地もモン・サン=ミシェルも美しいが、オルガ・キュリレンコがとてもきれいに撮られている。『オブリビオン』では、ほかのキャラクターに泣き所をさらわれたオルガ・キュリレンコだったが、この映画は寡黙すぎて印象が薄いベン・アフレックよりも彼女の映画になっている。

テレンス・マリック監督 『トゥ・ザ・ワンダー』 オルガ・キュリレンコが美しい

 公式サイトでは「愛の移ろい」などと要約しているが、物語はほとんどない。ニール(ベン・アフレック)はマリーナ(オルガ・キュリレンコ)とフランスで恋に落ち、アメリカへと呼び寄せるものの結局は別れる。しばらく友人のジェーン(レイチェル・マクアダムス)とも付き合ってみるものの、その後やはりマリーナを呼び戻すことになるが……。おおよそこんな筋があることはわかる。それでもこの映画では登場人物たちが会話するシーンもまれだから、なんとなくわかるという程度だ。それぞれのエピソードは現在進行形というよりは、過去から振り返ったイメージみたいなもので成り立っているからだ。描かれていることは具体的だが、説明的なものがなく唐突な断片で構成されるから抽象的にも感じられる。
 前作の『ツリー・オブ・ライフ』は、天地創造とか宇宙の誕生みたいな部分が唖然とさせたが、地上に戻ればそれなりにわかりやすい物語があった。ちょっと頑固者の父親のせいで家族がきついのもわかるし、子どもに対して語りかけるような場面も丁寧に描かれていた。それでもやはり『ツリー・オブ・ライフ』は難解な部分がある映画だと思うが、『トゥ・ザ・ワンダー』は『ツリー・オブ・ライフ』以上に観客を困惑させる映画かもしれない。

 この映画が物語の体を成していないのは、出会いにしても別れにしても、「出会いの高揚感」あるいは「関係が崩れつつあるときの絶望感」みたいなもののイメージによって表現されていくからだ。たとえば幸福の絶頂にあるイメージとすれば、アメリカの雄大な草原の上をくるくると回りながらふたりが戯れる、そんな映像が美しい音楽とともに流れていく。逆の絶望的な場面でも同様だ。ニールとマリーナは結婚するものの、うまくいかずカトリック教会の神父(ハビエル・バルデム)に救いを求めるが、そこでも対話がなされるわけではなく、ふたりが苦しんでいるというイメージがあるだけだ。
 対話はほとんどないと記してきたが、モノローグはある。登場人物それぞれがイメージの集積である映像をバックに独り言をつぶやく。しかもこのモノローグは『天国の日々』における少女の状況説明的なナレーションとは異なり、「何が真実なの?」「なぜふたりの愛は永遠でないの?」「なぜ愛は憎しみに変わるの?」という問いなのだ。監督・脚本のテレンス・マリックは、『トゥ・ザ・ワンダー』で何を表現しているのか?

テレンス・マリック監督 『トゥ・ザ・ワンダー』 バルデム演じる神父は神に語りかける

 重要な登場人物のひとりである神父のモノローグを参考にするとわかりやすいと思う。神父も常に心のなかでつぶやいている。「信者をどこに導くべきか?」「なぜあなたは姿を現さないのか?」など。もちろん、ここでの“あなた”とは神のことである。神父のつぶやきはすべて神に向けられている。つまり“神との対話”なのだ。
 登場人物たちのモノローグも同様なのだと思う。「なぜふたりの愛は永遠でないの?」といった問いは、愛した相手に向けられているわけではない。神に対して向けられているのだ。登場人物たちもそれぞれに“神との対話”に勤しんでいるのだ。
 
 では、“神との対話”とは何だろうか?
 『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸の共著)ではこんなふうに説明されている。(*1)一神教では世界のすべての出来事の背後に、唯一の原因があると考える。その原因とはGODである。GODは人格神であり、言葉を用いる存在だ。日本のような多神教の世界では、自然現象のそれぞれに神がいると考えるために、唯一の責任者のような存在はいない(一神教ではGODが唯一の責任者だ)。また仏教は因果法則によって世界を説明するが、法則には人格性がないから、法則とは対話できない(ブッダとは対話できたとしても)。ひるがえって一神教の場合には、GODとの対話が成り立つ。先ほど挙げたような人生における疑問を訴えてもいいし、日々の感謝をしても構わないが、GODへの語りかけを繰り返す。(*2)こんなGODとの不断のコミュニケーションこそが、“祈り”と言われる。
 だから『トゥ・ザ・ワンダー』は、テレンス・マリックの“神との対話”を映像化したものであり、“祈り”を表現したものなのだと思う。映画評論家の川口敦子によれば『ツリー・オブ・ライフ』の弟の死や、『トゥ・ザ・ワンダー』に描かれている出会いと別れは、テレンス・マリックの伝記的事実に拠っているのだとか(『キネマ旬報』8月下旬号より)。そうであるとすればますますこの映画がごく個人的な“祈り”としてあるということは明らかだと思う。
 ただ残念なことに、映画館の観客は他人の“祈り”にそれほどの関心があるとは思えないのだ。ちょっと観客が置きざりにされた感は否めないような……。なんだかんだ言っても、すでに撮影を終えているという3本の新作も観てしまうとは思うが。

(*1) 『ふしぎなキリスト教』は批判も多い本だが、わかりやすくてためになる部分もある。“神との対話”について論じているのは橋爪大三郎

(*2) 一神教のなかでもキリスト教はユダヤ教やイスラム教と比べれば戒律が厳しくない。キリストが説いたのは“隣人愛”といった精神論みたいなものだから、明確な指針には程遠い。だからより一層“神との対話”というものが重要になるのかもしれない。


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テレンス・マリックの作品

Date: 2013.08.17 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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