『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』 殺し屋が次に狙うのは?
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品『ボーダーライン』の続編。
今回の監督はドゥニ・ヴィルヌーヴではなく、『暗黒街』などのステファノ・ソッリマ。

メキシコからの不法入国者が爆弾テロを企て15人の市民が犠牲になるという事件が起きる。アメリカ政府はテロには屈しないとの声明を出し、さらに裏ではCIAの特別捜査官のマット・グレイヴァー(ジョシュ・ブローリン)を使い、テロを支援したとされるメキシコの麻薬カルテル内に抗争を引き起こそうと画策する。
この作品の原題は「Sicario: Day Of The Soldado」となっている。つまり本作のタイトルロールはSicario(殺し屋)であるアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)であり、前作で観客の目線の役割を担っていたケイト(エミリー・ブラント)は登場しない。
今回もマットとアレハンドロが共闘し、メキシコとアメリカの国境を舞台にした麻薬カルテルとの熾烈な戦いが繰り広げられる。マットの作戦は、カルテルのリーダーの娘イザベラ(イザベラ・モナー)を誘拐し、敵対する別組織のせいにして抗争を勃発させようとするもの。しかし計画は途中で頓挫、メキシコの警官たちまで殺すことになってしまい状況が変わる。「ダーティなこと」もやむを得ないと腹を括っていたはずのアメリカ政府は、前言を撤回し作戦を中止することに……。
※ 以下、ネタバレもあり!

◆テイラー・シェリダンの脚本から
この続編では監督も撮影監督も前作と変わってしまったが、未だ留まっているのが脚本のテイラー・シェリダン。彼の作品では弱肉強食の無法地帯に生きる人々が描かれるが、彼の視線は強者たる無法者たちに苦しめられる弱者のほうを向いているんじゃないか。そんなことを『ウインド・リバー』のときに書いた。
本作における無法者たちは麻薬カルテルの人間であり、それに対抗しようとするマットやアレハンドロも似たようなもの。それでも一番タチが悪いのは、騒動の発起人でありながら知らん顔ですべてを闇に葬ろうとするアメリカ政府かもしれない。
前作ではマットもアレハンドロも国家権力を利用している風にすら見えたのだが、本作でははしごを外されて酷い目に遭うことになる。そんな意味では彼らも屠られる側(弱者)になってしまったということも言えるかもしれない。
実際、アレハンドロはカルテルの一味につかまって死にかけることになる。たまたま生き延びることにはなったけれど、それは単なる偶然であり、アレハンドロが強者だったからではない。また、本作ではアレハンドロの過去が一部明らかにされるが、彼の亡くなった娘はろうあ者だったようで、このあたりでもアレハンドロが生まれながらの暗殺者ではない普通の市民であり、弱者でもあることが強調されているようだ。
それから新たなキャラとしてメキシコの少年ミゲル(イライジャ・ロドリゲス)が登場する。ミゲルはつつましい暮らしから脱しようとして麻薬カルテルに入ることになるが、似たような立場の少年がミゲルの前に無惨に殺されたように、彼も一歩間違えればという危うい位置にいるのだ。楽して稼ごうなどと無法地帯に足を踏み入れた庶民(弱者)は、前作の黒人警官と同様に無法者たちの餌食になることがオチであり、ミゲルが生き残ったのもたまたま運がよかったということだろう。テイラー・シェリダンは前作でも麻薬戦争の犠牲者である黒人警官のエピソードを丁寧に描いていたように、ミゲルが重要なキャラクターであることは間違いないだろう。
◆疑問を残したまま次へ
ラストではミゲルに対しアレハンドロがSicario(殺し屋)としてスカウトする場面で終わる。ちなみに『ボーダーライン』は3部作の構成となっているらしく、本作にはさらに続きがあるのだ。
アレハンドロがSicarioになったのには「家族を殺されたから」という理由があったが、ミゲルにはそこまでの強い動機はないわけで、アレハンドロがミゲルをスカウトした狙いが何なのかは次作に持ち越しということになるだろう。
改めて考えればアレハンドロは元検事だった。つまりは国家の手先として法の番人だったということになるだろう。しかし麻薬カルテルに家族を殺されたことで立ち位置を変えることになる。法によっては裁けない無法者たちを密かに殺すSicarioとなり、法を犯す側に回ることになるのだ。
アレハンドロの立ち位置の変更は、実は国家のそれと同様のものなのかもしれない。国家は「表の顔」と「裏の顔」を使い分けているからだ。国家は表では法治国家を名乗るが、裏では治安維持のためなら法を破るからだ。
だから私は先ほど一番タチが悪いのは国家かもしれないと言ってみたけれど、アレハンドロが最終的に目指すところも国家とそれほど違いはないという点では似た者同士なのかも(国家は治安維持が目的で、アレハンドロは私怨を晴らすことが目的だが)。アメリカ政府に裏切られマットとアレハンドロが敵対するような形になったときも、「やるべきことをやれ」と言うだけだったのはアレハンドロにはそうした理解があったのだろうか。
そんなアレハンドロが人質であるイザベラを最後まで守ろうとしたのはどういうわけだろうか。亡くなった娘と重なったのかもしれないが、前作の最後で子供たちも情け容赦なく始末していたのとは対照的とも言える。様々な疑問も残るが、これらも次作に持ち越しということになる。そんなわけで次への橋渡し的な作品になってしまった感は否めないが、次を楽しみにしたい。


今回の監督はドゥニ・ヴィルヌーヴではなく、『暗黒街』などのステファノ・ソッリマ。

メキシコからの不法入国者が爆弾テロを企て15人の市民が犠牲になるという事件が起きる。アメリカ政府はテロには屈しないとの声明を出し、さらに裏ではCIAの特別捜査官のマット・グレイヴァー(ジョシュ・ブローリン)を使い、テロを支援したとされるメキシコの麻薬カルテル内に抗争を引き起こそうと画策する。
この作品の原題は「Sicario: Day Of The Soldado」となっている。つまり本作のタイトルロールはSicario(殺し屋)であるアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)であり、前作で観客の目線の役割を担っていたケイト(エミリー・ブラント)は登場しない。
今回もマットとアレハンドロが共闘し、メキシコとアメリカの国境を舞台にした麻薬カルテルとの熾烈な戦いが繰り広げられる。マットの作戦は、カルテルのリーダーの娘イザベラ(イザベラ・モナー)を誘拐し、敵対する別組織のせいにして抗争を勃発させようとするもの。しかし計画は途中で頓挫、メキシコの警官たちまで殺すことになってしまい状況が変わる。「ダーティなこと」もやむを得ないと腹を括っていたはずのアメリカ政府は、前言を撤回し作戦を中止することに……。
※ 以下、ネタバレもあり!

◆テイラー・シェリダンの脚本から
この続編では監督も撮影監督も前作と変わってしまったが、未だ留まっているのが脚本のテイラー・シェリダン。彼の作品では弱肉強食の無法地帯に生きる人々が描かれるが、彼の視線は強者たる無法者たちに苦しめられる弱者のほうを向いているんじゃないか。そんなことを『ウインド・リバー』のときに書いた。
本作における無法者たちは麻薬カルテルの人間であり、それに対抗しようとするマットやアレハンドロも似たようなもの。それでも一番タチが悪いのは、騒動の発起人でありながら知らん顔ですべてを闇に葬ろうとするアメリカ政府かもしれない。
前作ではマットもアレハンドロも国家権力を利用している風にすら見えたのだが、本作でははしごを外されて酷い目に遭うことになる。そんな意味では彼らも屠られる側(弱者)になってしまったということも言えるかもしれない。
実際、アレハンドロはカルテルの一味につかまって死にかけることになる。たまたま生き延びることにはなったけれど、それは単なる偶然であり、アレハンドロが強者だったからではない。また、本作ではアレハンドロの過去が一部明らかにされるが、彼の亡くなった娘はろうあ者だったようで、このあたりでもアレハンドロが生まれながらの暗殺者ではない普通の市民であり、弱者でもあることが強調されているようだ。
それから新たなキャラとしてメキシコの少年ミゲル(イライジャ・ロドリゲス)が登場する。ミゲルはつつましい暮らしから脱しようとして麻薬カルテルに入ることになるが、似たような立場の少年がミゲルの前に無惨に殺されたように、彼も一歩間違えればという危うい位置にいるのだ。楽して稼ごうなどと無法地帯に足を踏み入れた庶民(弱者)は、前作の黒人警官と同様に無法者たちの餌食になることがオチであり、ミゲルが生き残ったのもたまたま運がよかったということだろう。テイラー・シェリダンは前作でも麻薬戦争の犠牲者である黒人警官のエピソードを丁寧に描いていたように、ミゲルが重要なキャラクターであることは間違いないだろう。
◆疑問を残したまま次へ
ラストではミゲルに対しアレハンドロがSicario(殺し屋)としてスカウトする場面で終わる。ちなみに『ボーダーライン』は3部作の構成となっているらしく、本作にはさらに続きがあるのだ。
アレハンドロがSicarioになったのには「家族を殺されたから」という理由があったが、ミゲルにはそこまでの強い動機はないわけで、アレハンドロがミゲルをスカウトした狙いが何なのかは次作に持ち越しということになるだろう。
改めて考えればアレハンドロは元検事だった。つまりは国家の手先として法の番人だったということになるだろう。しかし麻薬カルテルに家族を殺されたことで立ち位置を変えることになる。法によっては裁けない無法者たちを密かに殺すSicarioとなり、法を犯す側に回ることになるのだ。
アレハンドロの立ち位置の変更は、実は国家のそれと同様のものなのかもしれない。国家は「表の顔」と「裏の顔」を使い分けているからだ。国家は表では法治国家を名乗るが、裏では治安維持のためなら法を破るからだ。
だから私は先ほど一番タチが悪いのは国家かもしれないと言ってみたけれど、アレハンドロが最終的に目指すところも国家とそれほど違いはないという点では似た者同士なのかも(国家は治安維持が目的で、アレハンドロは私怨を晴らすことが目的だが)。アメリカ政府に裏切られマットとアレハンドロが敵対するような形になったときも、「やるべきことをやれ」と言うだけだったのはアレハンドロにはそうした理解があったのだろうか。
そんなアレハンドロが人質であるイザベラを最後まで守ろうとしたのはどういうわけだろうか。亡くなった娘と重なったのかもしれないが、前作の最後で子供たちも情け容赦なく始末していたのとは対照的とも言える。様々な疑問も残るが、これらも次作に持ち越しということになる。そんなわけで次への橋渡し的な作品になってしまった感は否めないが、次を楽しみにしたい。
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