『サスペリア』 ダンスが凶器?
1977年の『サスペリア』(ダリオ・アルジェント監督)のリメイク。
監督は『君の名前で僕を呼んで』などのルカ・グァダニーノ。

オリジナルの99分に対して本作は152分ということで1時間近くも長くなっていて、まったく別物に仕上がっている。オリジナル版では原色そのままのどぎつい色合いとゴブリンの音楽が強烈なインパクトだった(特にテーマ曲は一度聴いたら忘れられないほど)。一方の今回のリメイクは地味な色合いの重厚なつくりで、かなりのアート志向なのだ。似たようなリメイクをやっても意味はないわけで、これは正解だったんじゃないかと思う。
ダリオ・アルジェント版の『サスペリア』は実は3部作となっているのだそうだ。『インフェルノ』(1980)『サスペリア・テルザ 最後の魔女』(1977)という続編があるようで、そちらも含めてのリメイクとなっている模様。
◆リメイク版に追加されたのは?
152分という長尺となって付け加わったのは、1977年当時のドイツの政治的な状況だ。そのころはまだ東西ベルリンが分断中で、舞台となる舞踏団の学校もベルリンの壁のすぐ近くにある。そして、「ドイツの秋」などと呼ばれるバーダー/マインホフが起こしたテロ事件がニュースで取り上げられている。
登場人物のひとりクレンペラー(ティルダ・スウィントン)という精神科医は、ナチスの第三帝国やバーダー/マインホフがやろうとしていることを妄想だと指摘する。舞踏団から逃げ出したパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)が、舞踏団が魔女に支配されていると語るのも、そうした妄想の一種だと考えている。人は妄想を抱くことで何とか生きていける場合がある。第一次大戦で敗れたドイツがナチスを政権に押し上げたように。
それでは魔女というのは一体何か。“魔女狩り”という現象にも表れているように、魔女というのは社会から排除された存在だ。実際には魔女はいないのだが、その社会にとって耐え難い出来事があったとき、異端である人々がその元凶とされ、スケープゴートとしての魔女が生み出されることになる。そして、現実のドイツで排除されたのはユダヤ人たちだった(実はクレンペラーはユダヤ人)。人は妄想に頼ってしまう場合があるが、その妄想によって排除される人もいる。それが魔女であり、ユダヤ人だということだ。
ただ、本作の魔女は比喩ではなくて本物である。魔術を操り多大な力を持つ存在だ。最後には魔女として覚醒した主人公スージー・バニヨン(ダコタ・ジョンソン)は、事件の証人たるクレンペラーの記憶を消す。その時、スージーはこんなふうに語る。「私たちは恥と罪を必要としています。しかしあなたのものではありません」と。このスージーは神のような視点からドイツの歴史を見ているようにも思える。つまりはこの作品の魔女は、二種類いるということかもしれない。メタファーとしての魔女と、リアルな力を持つ魔女と。だから、何だかややこしい。それでもドイツ社会の縮図が表現されていることに間違いない。

◆ダンスが凶器?
オリジナルでは魔女の呪いによって、何者かがナイフを使ったり、犬が殺しを代行したりしていたわけだが、今回はもっと凝っている。『キネマ旬報』の「キネ旬レビュー」では、「常軌を逸したカットつなぎが連打され、しかもカット尻が全部少しずつ短い感じがあって、それだけでまず観る側の神経をおかしくする趣向」という評価がされていた。
とにかく何か異様なものを見ているという感じがして、それがショッキングなシーンへと結びついていた。舞踏団のダンスやスージーの過去、性的なものや何だかわからない禍々しい映像、そうしたものが隣接するイメージでつらなっていくようでもあった(一度観ただけだから曖昧だが)。
そのショッキングなシーンというのがダンスでの殺人シーンだ。マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)に術をかけたれたスージーが踊り出すと、別室に閉じ込められているオルガの身体もそれに合わせて動き出し、ダンスが殺人へとつながるのだ。
ここはひとりでバックドロップをやってみせるオルガ役の女優さんの身体能力もすごかったのだが、最後はひとり卍固めのようになってしまう。しかもオルガは息も絶え絶えながら生きていて(だから殺人シーンではないのだが)、後の儀式に使われるという残酷さ。ラストの血みどろシーンはグチャグチャでもはや何だかよくわからなかったけれど、ダンスでの殺人シーンだけでも十分にスゴいものを観たという気がした。
それからエンドクレジット後のスージーの仕草も謎めいている。公式サイトには町山智浩の推測も交えた解説動画がアップされている。それによればスージーが最後に手をかざしているのはベルリンの壁だとか。






監督は『君の名前で僕を呼んで』などのルカ・グァダニーノ。

オリジナルの99分に対して本作は152分ということで1時間近くも長くなっていて、まったく別物に仕上がっている。オリジナル版では原色そのままのどぎつい色合いとゴブリンの音楽が強烈なインパクトだった(特にテーマ曲は一度聴いたら忘れられないほど)。一方の今回のリメイクは地味な色合いの重厚なつくりで、かなりのアート志向なのだ。似たようなリメイクをやっても意味はないわけで、これは正解だったんじゃないかと思う。
ダリオ・アルジェント版の『サスペリア』は実は3部作となっているのだそうだ。『インフェルノ』(1980)『サスペリア・テルザ 最後の魔女』(1977)という続編があるようで、そちらも含めてのリメイクとなっている模様。
◆リメイク版に追加されたのは?
152分という長尺となって付け加わったのは、1977年当時のドイツの政治的な状況だ。そのころはまだ東西ベルリンが分断中で、舞台となる舞踏団の学校もベルリンの壁のすぐ近くにある。そして、「ドイツの秋」などと呼ばれるバーダー/マインホフが起こしたテロ事件がニュースで取り上げられている。
登場人物のひとりクレンペラー(ティルダ・スウィントン)という精神科医は、ナチスの第三帝国やバーダー/マインホフがやろうとしていることを妄想だと指摘する。舞踏団から逃げ出したパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)が、舞踏団が魔女に支配されていると語るのも、そうした妄想の一種だと考えている。人は妄想を抱くことで何とか生きていける場合がある。第一次大戦で敗れたドイツがナチスを政権に押し上げたように。
それでは魔女というのは一体何か。“魔女狩り”という現象にも表れているように、魔女というのは社会から排除された存在だ。実際には魔女はいないのだが、その社会にとって耐え難い出来事があったとき、異端である人々がその元凶とされ、スケープゴートとしての魔女が生み出されることになる。そして、現実のドイツで排除されたのはユダヤ人たちだった(実はクレンペラーはユダヤ人)。人は妄想に頼ってしまう場合があるが、その妄想によって排除される人もいる。それが魔女であり、ユダヤ人だということだ。
ただ、本作の魔女は比喩ではなくて本物である。魔術を操り多大な力を持つ存在だ。最後には魔女として覚醒した主人公スージー・バニヨン(ダコタ・ジョンソン)は、事件の証人たるクレンペラーの記憶を消す。その時、スージーはこんなふうに語る。「私たちは恥と罪を必要としています。しかしあなたのものではありません」と。このスージーは神のような視点からドイツの歴史を見ているようにも思える。つまりはこの作品の魔女は、二種類いるということかもしれない。メタファーとしての魔女と、リアルな力を持つ魔女と。だから、何だかややこしい。それでもドイツ社会の縮図が表現されていることに間違いない。

◆ダンスが凶器?
オリジナルでは魔女の呪いによって、何者かがナイフを使ったり、犬が殺しを代行したりしていたわけだが、今回はもっと凝っている。『キネマ旬報』の「キネ旬レビュー」では、「常軌を逸したカットつなぎが連打され、しかもカット尻が全部少しずつ短い感じがあって、それだけでまず観る側の神経をおかしくする趣向」という評価がされていた。
とにかく何か異様なものを見ているという感じがして、それがショッキングなシーンへと結びついていた。舞踏団のダンスやスージーの過去、性的なものや何だかわからない禍々しい映像、そうしたものが隣接するイメージでつらなっていくようでもあった(一度観ただけだから曖昧だが)。
そのショッキングなシーンというのがダンスでの殺人シーンだ。マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)に術をかけたれたスージーが踊り出すと、別室に閉じ込められているオルガの身体もそれに合わせて動き出し、ダンスが殺人へとつながるのだ。
ここはひとりでバックドロップをやってみせるオルガ役の女優さんの身体能力もすごかったのだが、最後はひとり卍固めのようになってしまう。しかもオルガは息も絶え絶えながら生きていて(だから殺人シーンではないのだが)、後の儀式に使われるという残酷さ。ラストの血みどろシーンはグチャグチャでもはや何だかよくわからなかったけれど、ダンスでの殺人シーンだけでも十分にスゴいものを観たという気がした。
それからエンドクレジット後のスージーの仕草も謎めいている。公式サイトには町山智浩の推測も交えた解説動画がアップされている。それによればスージーが最後に手をかざしているのはベルリンの壁だとか。
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