『午後8時の訪問者』 何がジェニーに起ったか?

 『ロゼッタ』『サンドラの週末』などのジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の最新作。
 原題は「La fille inconnue」「見知らぬ女の子」といった意味らしい。
 この作品でもダルデンヌ兄弟作品の常連役者があちこちに顔を出している。

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 『午後8時の訪問者』 女医のジェニー(アデル・エネル)は診療時間を過ぎて鳴らされたベルを無視したことで、助けられたかもしれない命を救えなかったことに悩む。


 ある夜、診療時間を1時間も過ぎたころに鳴ったベルを、女医のジェニー(アデル・エネル)は無視してしまう。翌日、ベルを無視したことでひとりの女性が亡くなったということを知らされる。ジェニーはもしかすると助けられたかもしれない命を見過ごしてしまったことに思い悩むことになる。

 ジェニーは優秀な医者だ。診療所に現れる患者は様々な問題を抱えているけれど、医者は冷静に病状を判断して対処しなければならない。それだけに患者の痛みにあまりに繊細に反応してしまう研修医(オリヴィエ・ボノー)のことが心配でもあり、プロフェッショナルとしての対応を見せようとする。そんな事情が診療時間を過ぎてからのベルを無視するという結果を招き、それによって助けられたかもしれない命は喪われることになる。
 診療所の監視カメラには見知らぬ黒人女性が助けを求めるようにベルを鳴らす姿が捉えられていた。彼女は何から逃げようとしていたのか。ジェニーは亡くなった女性のことを独自に調べ始める。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『午後8時の訪問者』 ジェニーは亡くなった女性について調べることになるのだが……。常連のオリヴィエ・グルメも顔を出す。

◆主人公を追い続けるカメラ

 ダルデンヌ兄弟の作品では、最初から最後までカメラが主人公の姿を追い続けていくことになる。たとえば『ロゼッタ』では貧困のどん底にあえぐロゼッタがどうやって生きていくかが追われることになるし、『息子のまなざし』では息子を殺された父親がその犯人と出会ってしまったことで生じる葛藤を追われていく。前作『サンドラの週末』では、職を失うことになるかもしれないサンドラが、助けを求めて同僚たちを説得しに回る姿が追われることになる。
 カメラは主人公の姿を延々と追い続けるわけで、観客の興味は主人公がどうやって事態を乗り越えるのか、あるいは破滅するのかといったところに向かうし、観客は常に主人公に寄り添うことになるために主人公に対する共感の気持ちも生まれるだろう。
 しかし『午後8時の訪問者』のジェニーの場合は事情が異なる。カメラはジェニーを追い続けることになるわけだけれど、観客の興味としては亡くなった女性が一体何者だったのかという点にある。つまり、ジェニーは観客の視点の役割は果たしているけれど、観客の共感の対象とはなりづらい位置にいるのだ。
 ジェニーは事情を探り始めるけれど、ジェニー自身が切羽詰った状況にあるわけではないし、亡くなった女性の秘密を明らかにする探偵のような役割になってしまっている。探偵が活躍する推理小説では、探偵自身に対する興味よりも事件の謎のほうに興味が向くのは当然で、本作でも亡くなった女性の謎が明らかになるにつれて、ジェニーの役割が減じていくように見えるのだ。

◆手法に対する執着が空回り?
 ジェニーがあちこちを嗅ぎ回ってわかってくるのは、亡くなった女性が街娼をしていたという事実だ。さらに娼婦と関係を持っていた街の人々の後ろ暗い事情も明らかになってくる。黒人女性は移民であり、彼女の稼ぐ金で生計を立てている移民仲間の存在もほのめかされる。
 ダルデンヌ兄弟がインタビューなどでも語っているように、ジェニーと移民の関係は、ヨーロッパと移民の関係を示している。開かれることのなかった診療所のドアは、移民に対してヨーロッパが閉ざされているということになる。
 ちなみにダルデンヌ作品ではすでに『ロルナの祈り』において移民が主人公となっている。こちらの作品では観客は常にロルナのそばに寄り添うことになり、その切羽詰った状況に同情し、彼女を応援するような気持ちにもなる。しかし『午後8時の訪問者』では、移民の問題が浮かび上がってきても、主人公のジェニーとはほとんど無関係とも言える。もっとも移民という問題自体が、そうした無関心によって存在しているとも言えるわけだけれど……。

 主人公にカメラが寄り添うという手法を選択するのだとしたら、移民の問題が浮かび上がってから、ジェニーがそれまでのキャリアを捨てて患者に寄り添う診療所医師のほうを選択するという展開にしたほうがよかったのかもしれない。作品の中盤あたりでジェニーはプライベートな生活を捨てて診療所内で生活し始める。ここではジェニーのまるで菩薩のような生真面目さは感じられるのだけれど、最後に明らかにされるいくつかの打ち明け話がジェニーに対して決定的なものをもたらすわけではないために、主人公がただの視点人物に成り下がり、いささか共感に欠ける作品となってしまっているようにも思えた。

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ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌのその他の作品
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Date: 2017.04.16 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『サンドラの週末』 とてもシンプルだけれど静かな感動が

 『ロゼッタ』『少年と自転車』などのジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の最新作。原題は「DEUX JOURS, UNE NUIT(2日と1夜)」
 タイトルロールのサンドラにはマリオン・コティヤール。サンドラの夫マニュにはダルデンヌ兄弟作品の常連ファブリツィオ・ロンジョーネ『息子のまなざし』などのオリヴィエ・グルメも顔を出す。

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督 『サンドラの週末』 マリオン・コティヤールはすっぴんでサンドラを演じる。


 体調不良で休職していたサンドラ(マリオン・コティヤール)は、週明けの月曜からの復職が決まっていた。しかし会社側は不況を理由に、サンドラが復職するとなると従業員のボーナスが払えなくなると言い出す。ボーナスを選ぶか、仲間の復職を選ぶか。会社側は従業員に対して二者択一の投票を求める。サンドラは週末に同僚たちに会い、「ボーナスをあきらめ、自分に投票してくれるように」と説得に回ることになる。

 『サンドラの週末』はとてもシンプルな物語だ。サンドラは月曜の投票までの「2日と1夜」の間に、16人の同僚のひとりひとりと接触を試みる。そして、ダルデンヌ兄弟の過去作品と同様に、カメラは主人公サンドラの姿を追い続けることになる。
 カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作『ロゼッタ』では、主人公ロゼッタはもっと図太いところがあったが、サンドラはとてもか弱い。突然の電話で投票のことを知らされると、「泣いちゃダメ」と自分に言い聞かせたりもする。ただサンドラには支えてくれる家族がいる(ロゼッタにはアル中の母親だけだった)。夫マニュはいつもサンドラを励まし、前を向かせ、一歩足を踏み出すための後押しをしている。加えてまだ幼いふたりの子供もいるわけで、いつまでも休職しているわけいかない理由もある。もちろん自分のためにボーナス断念を要求するのは気が引ける行動だが、サンドラにとってはこの戦いは前に進むために必要なものなのだ。

 サンドラは同僚のひとりひとりに会いに行くが、その対応は様々。事情を理解し同情はするものの、それぞれの事情もあって簡単にはボーナス1000ユーロ(約13万円)を放棄することはできない。なかには居留守を使う者もいるし、如実に嫌悪感を表す者もいる。それでも一部はサンドラに投票することを約束してくれる者も現れる。
 こうした同僚との接触というエピソードは、その後、何度も反復される。ダルデンヌ兄弟はそれぞれの交渉をワンカットで描いていく。同僚と顔を合わせ、なぜ会いに来たかを説明し、サンドラが自らの窮状を訴え、相手からの反応を得る。ときにそれは乱闘にも発展するのだけれど、ダルデンヌ兄弟のカメラはカットを割ることなく追い続けていく。
 観客はサンドラ訪問の理由を知っている。それでも、この作品ではサンドラが同僚にそれを説明する部分も省略することはない。状況が微妙に変化し、サンドラに味方する人も少しずつ増えてはいくものの、サンドラは繰り返し繰り返し「ボーナスをあきらめ、自分に投票してくれるように」と訴えていく。(*1)このあたりはシンプルで、単調さ厭わないその方法論に監督の強い意志を感じる。

(*1) 参考にさせていただいたこちらのブログによれば、サンドラと同僚との間で背景を変えるという細かい演出をしているようだ。下のスチールを参照するとよくわかる。

『サンドラの週末』 サンドラは同僚に会いにいき交渉する。

『サンドラの週末』 どちらの背景もサンドラと同僚とでは異なっている。なるほど!

 サンドラは鬱病だ。その病状はよくなっても、まだ薬を手放すことはできない。頻繁に仮眠をとるのも、喉が渇くために常にペットボトルの水を携帯しているのも、薬の副作用だろう。また、サンドラのベッドメイクを見ていると、とても几帳面な様子が窺える。自殺を図ったときも、大量に服用した薬のゴミを丁寧に箱に戻してからキャビネットにしまっている。そんな細部にもリアリティがあったと思う(几帳面な人は鬱病になりやすいらしい)。だから同僚の反応に激しく浮き沈みするのも、サンドラの病気のせいだと思えば理解しやすいし、唐突な自殺もわからなくはない(そのあと急に回復するのはどうかと思うけれど)。

 結局、サンドラは投票で過半数を取ることができない。しかし従業員内での不和を心配した社長は、サンドラに妥協案を提示する。サンドラを復帰させ、ボーナスも支給するが、代わりに短期契約の同僚を解雇するというのだ。サンドラとしては誰かを押しのけてまで復職するつもりはないわけで、その社長からの提案を断ってしまう。それでもサンドラは善戦したことを夫に伝えるとしっかりとした足取りで歩き出す。そんなラストには静かな感動があった。
 『ロゼッタ』では、ロゼッタは葛藤の末に友人リケ(『サンドラ』の夫マニュ役のファブリツィオ・ロンジョーネが演じている)を押しのけてその職を奪うわけだが、サンドラはそれをしない。前作『少年と自転車』でも希望に満ちたところがあったわけで、ダルデンヌ兄弟が厳しさを失ったように思えなくもないけれど、戦っているものが違うからだろうとも思う。
 ロゼッタはキャンピングカーでギリギリの生活をしていた。仕事を持つことがロゼッタの目標だった。一方、サンドラはそばには助けてくれる夫がいる。家賃は高いけれど、かつての公営住宅に戻ることはしたくないとも考えている。サンドラが戦っているのは鬱病という病のほうであり、復職へ向けての交渉は前に進むための試金石に過ぎないのだ。その戦いで善戦したサンドラは自信を取り戻しただろうし、鬱病が完治して元気を取り戻せば、ほかの仕事だってできる。まさに「元気があれば、何でもできる!(by アントニオ猪木)」わけだから……。

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Date: 2015.05.25 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (9)

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 『少年と自転車』

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 冒頭の逃走シーンからも『ロゼッタ』を思い起こさせる。その暴れっぷりとかあきらめが悪そうなところも似ている。『ロゼッタ』では彼女が歩き回るシーンが重要だった。『少年と自転車』では自転車のシーンが、少年の行動の中心となり様々な感情を表現している。消えた自転車を取り戻した少年(シリル)は、それまでの駄々のこね様とうって変わって楽しそうに庭を走り回る。里親になったサマンサと自転車で並走するシーンは、明るい陽光とともに幸福感に満ちている。たとえば『晩春』でも、自転車のシーンは楽天的で明るい光に満ちていた。ふたりが並んで自転車を走らすという構図は、幸せの条件の何かしらを含んでいるのかもしれない。
 それから『少年と自転車』では、チラシにもあるように、覗き見のシーンが登場する。これは学校(?)から逃げ出すために、先生の様子を覗き見ているシーンだ。シリルは父親を探しにいくために、逃げ出す必要があったのだ。『ロゼッタ』でも覗き見は印象的に使われている。『息子のまなざし』でも、主人公が自らの敵(息子を殺した犯人)に出会うシーンとして覗き見があった。ダルデンヌ監督の映画では、覗き見は物語を駆動させるきっかけになっているようだ。

 シリルがロゼッタの男の子版だとしても、異なる部分も多い。ロゼッタは友達を裏切ってしまうが、シリルは裏切られる側に立たされる。シリルは保護者であるはずの父親からは見放され、大事な自転車は売り払われる。そんな父の代わりなのか、薬の売人が近づいてくると、シリルは彼を信じて罪を犯す。結局は売人に騙されたことを知って、改めて父親の元に赴いても、さらに拒絶されてしまう。騙され裏切られて戻るところのないシリルも、ようやくいつもそばに居てくれた里親サマンサの存在の大切さに気づくのだ。
 ロゼッタは現実に直面していたから、最後まで逡巡しつつも裏切ることを選んだ。常に歩き回っていたロゼッタが街角でもの思いに耽るのも、そんな葛藤があったからだ。そして犠牲を払っての選択が意味をなさなかったからこそ、最後のドラマが生まれた。
 少年はまだ現実を知らない。それはもちろん年齢によるものだろう。だがシリルは裏切られることで現実を知ることになる。そして現実の厳しさを学ぶとともに、希望の光をも見出すのだ。

 『ロゼッタ』では見守ってくれる誰かが存在しなかった。カメラは常にロゼッタのそばを離れなかったから、観客こそがロゼッタを見守る存在だったと言えるかもしれない。『少年と自転車』では、見守ってくれる誰かが映画のなかにサマンサとして登場する。だからカメラはシリルの姿を離れ、サマンサの心配そうな様子や苦悩をも描く。
 ラストでシリルは自分の犯した罪の報復を受ける。朦朧としながらもサマンサへ向けて自転車を走らせる姿は力強いものがあった。初めて使われた音楽もシリルのために奏でられる。「音楽があれば、彼の苦しみを少し和らげることができるのではないかと思ったんです」と監督は語る。これまで社会の底辺の人間を描いてきたからか、どことなく暗い印象が強かったダルデンヌ映画だが、まだ年若い少年シリルには希望を与えたかったのだろう。

http://eigato.com/?p=8247
(↑ 上記参照しました。)

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その他のダルデンヌ兄弟の作品
Date: 2012.04.07 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 『ロゼッタ』

 『ロゼッタ』は私の大好きな映画。それだけに思い入れが強くて、多少なりとも思い込みの強いレビューになっているかも。

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 この映画ではカメラは常にロゼッタのそばを離れることがない。
 突進するように歩き回るロゼッタの姿をカメラは追い続け、原因不明の腹痛に悩まされるときも、街角でもの思いに耽るときも、張り詰めた緊張の糸が途切れて自ら死に赴こうとするときも、常にカメラは寄り添うようにしている。観客は常にロゼッタの目を通した世界を体験する。仕事にあぶれ、アル中の母親を抱えてキャンピングカーに暮らす日々は楽しいわけもなく、それを見続ける観客も息苦しさを感じるかもしれない。この息苦しさの理由はなんだろうか?

 カメラはロゼッタのそばを離れないから、ロゼッタの見ていない世界は彼女の知らない場所で動いている。だから解雇通知は予告もなく突然だし、友人の訪問はけたたましく耳障りなバイクのエンジン音としてロゼッタを不意打ちすることになる。世界との調和に欠けるからこそ、ロゼッタには解離という症状も現れる。
 「この世界には音楽など聴こえない」と言わんばかりに、エンディングクレジットにすら音楽が入ることのない映画のなかで、唯一音楽が響くのがロゼッタが友達の家でダンスをするシーンだ。ラジカセからつたないバンドの音が流れ、つかの間、友達と心を通わせる。アル中の母親の元から一時だけ離れた安堵のとき、ロゼッタはこうつぶやく。

あなたはロゼッタ。わたしはロゼッタ。
仕事を見つけた。わたしも見つけた。
友達ができた。わたしにもできた。
まっとうな生活。わたしもそう。
失敗しないわ。わたしも失敗しない。
おやすみ。おやすみ。


 わたし=ロゼッタは当然だが、あなた=ロゼッタと呼びかけている。“自分”を対象化して、あなたと呼びかけるのだ。そもそも解離とはどういう症状か。

解離とは、耐えがたい苦痛による精神崩壊を防ぐために、痛みを感じなくなったリ、忌々しい記憶やそのときに感じた生々しい感情を自分から切り離すことによって苦痛から逃れる心理的なメカニズムです。解離状態とは、記憶、意識、身体感覚、時間感覚など、本来ならばうまく統合されている精神機能が統一されていない状態といえます。


http://www1.hinocatv.ne.jp/nanao/didex.html
(↑ 上記参照しました。)

 ロゼッタは病気とまでは言えない。ロゼッタが現実と対峙するための処方箋として解離が選択されている。解離の試みとでも言おうか。“自分”を客観視しなければやっていけないような辛い現実があるのだ。
 そう考えると寄り添うようなカメラは、自己の解離した姿のようにも見えてくる。ただそれは試みに過ぎないから、ロゼッタのあとをついて回るだけで、完全に客観的な視点にはならない。だが覗き見のシーンだけは、カメラが突然正面からロゼッタの表情を捉える。物陰からこっそり顔を出すロゼッタは、カメラに後ろから追われるのではなく正面から真っ直ぐに捉えられるのだ。覗き見するはずの“自分”が見られてしまう。解離した意識が“自分”を見つめているようだ。ここにロゼッタの解離症状が表現されているように考えるのは思い込みが過ぎるだろうか。
 覗き見という行為は、“自分”を隠して世界を見つめようとすることだろう。“自分”を隠そうという意識が、ロゼッタを解離の症状に導いたのかもしれない。世界と真正面から対峙しているときは、どうしても無我夢中で“自分”という存在から逃れられず、世界を観察しようと覗き見をするときに解離しているのが興味深い。

 ロゼッタは仕事がほしいばかりに友達を裏切る。この友達との関係も微妙なもので、男女であっても恋愛関係からは程遠く、ロゼッタは湖で溺れそうになる友達を助けるのをためらう。彼がいなくなれば仕事の口が空くかもしれないというわけだ。
 結局ロゼッタはたったひとりの友達を失ってまで仕事を得た。それは生きるために必要だったから。だが帰宅してアル中の母親の酔いつぶれた姿を目にして、それが無駄だったと知り、淡々と自殺を図る。さらにその自殺も失敗に終わったとき、裏切った友達の前でロゼッタは初めて弱々しい涙を見せる。
 カメラが常にロゼッタのそばを離れられないように、ロゼッタは“自分”という殻のなかに閉じ込められ、そこから逃れられない。息苦しさはそこにあるのだ。その息苦しさはロゼッタを延々と見続けた観客も同じことで、ロゼッタがロゼッタ以外の何者にもなれないように、観客のひとりひとりも“自分”という状況から逃げ出すことができないのだ。解離というのは通常は病理だが、ロゼッタが経験した状況下では自己防衛だ。しかしロゼッタのそうした解離の試みも、世界の前に虚しく破れ去ることになるのだ。
 それにしてもロゼッタの最後の表情はなんとも言えない。それまで常に前向きで強気だったロゼッタを見続けてきただけに、かえってその泣き崩れた顔に愛おしいものを感じざるを得ないだろう。

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その他のダルデンヌ兄弟の作品
Date: 2012.04.07 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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