『ニンフォマニアックVol. 2』 “ポルノ”は退屈?
ラース・フォン・トリアー監督の最新作。先月公開されたVol. 1の続き。全8章の物語の、第6章から第8章まで。

Vol. 1ではジョーが不感症に陥ったところで終わる。ジョー(シャルロット・ゲンズブール)にとって、セックスでの快感が得られないのは耐え難いこと。それはジョーの告白の聞き手であるセリグマンが、読書による愉悦を得られなくなることのように切実な問題だ。
ここで話は少し過去に戻って、ジョーが初めてオーガズムを経験したときのことへ。草むらで寝転がっていたジョーは、身体が浮かび上がっていくような不思議な感覚を体験する。これはセリグマンの解釈によれば「イエスの変容」の場面ということになる。
ジョーは自分の性的な体験のすべてを、わけのわからない比喩でもって解釈していくセリグマンに苛立ちを見せる。そして、セリグマン(ステラン・スカルスガルド)には性的な経験がまったくないということに気がつく。セリグマンは童貞で、性に対する具体的な感覚を知らないから、本から得た理屈っぽい解釈にばかり頼っているのだと。ここでジョーにたしなめられることで、セリグマン流解釈は出番を減らし、物語はジョーのさらなる性的な探求へと向かい、ラース・フォン・トリアーらしい痛々しい場面も多くなる。
ジョーは夫・ジェローム(シャイア・ラブーフ)とのセックスでは満足を得られない。そのためジェロームは、ジョーがほかの男とセックスすることを望む(これは『奇跡の海』にもあった展開だ)。ジョーは不感症の回復のために、さらに苦行のような行動へと突き進んでいく。言葉の通じない黒人との3Pから始まり、SM的な方向へ探求を進める(第6章「東方教会と西方教会(サイレント・ダック)」)。カウンセリングにも通うことになるが、それを治療するべきものとは捉えず自らを肯定する(第7章「鏡」)。それでも次第に日々の仕事にも支障を来たしたジョーは、借金取りという裏稼業の仕事に手を染めることになる(第8章「銃」)。

『奇跡の海』では主人公ベスは純粋すぎるがゆえに、夫の希望通り街娼のような真似をすることになるわけだが、『ニンフォマニアック』のジョーの場合はどうだろうか。ジョーは夫のためにほかの男と寝ることを選ぶのではなく、自らの性的な探求心ゆえにそうしている。第1章の男漁りでも、女友達が「愛はセックスのスパイス」だとして、純粋な男漁りから離れて愛に向かうのを、ジョーは愉快には感じていないようだった。子供を放置してSMクラブ(?)に通うことを夫に非難されたときも、夫も子育てには向いていないと開き直り、自分の行動を反省するわけではない(というよりも家庭人になってしまったジェロームの変節を非難しているようにも見える)。
ジョーが何に突き動かされているのかはよくわからない。カウンセリングにおいて最後にジョーがこだわるのは、自らが「ニンフォマニアック」であって、「セックス・アディクト」ではないということだ。これは単に言い替えただけだと思うのだが、ジョーにとっては大事なことらしい。セリグマンが「ニガー」を差別用語だとして非難するのにも耳を貸さないあたりにも、ジョーの依怙地な部分が表れているのかもしれないし、ジョーのセクシュアリティという厄介な部分に触れるものがあるのかもしれない。何にせよ、ジョーが自分の存在を重ね合わせる木(山上で風に吹かれて斜めに傾いでいる)が孤独に立っていたように、ジョー自身もこの世に居場所を見つけることは難しいようだ。
Vol. 1のときも「冗長な部分がある」と記したが、Vol. 2はさらに冗長だと思う。ポルノというもの自体はそれほど扇情的なものではないのだろう。(*1)たとえばアダルトビデオは早送りを前提に製作されているのだという(私は某作家の講演でそんなことを聞いた)。裸や局部が映っているというだけのものならば、単に退屈なものなのだ。
この映画でも局部は卑猥さを表現するというよりは、主に笑いを担っている(黒人の巨根に挟まれたシャルロット・ゲンズブールがVol. 2で一番笑える)。だから前後編4時間のポルノというのはいささか長すぎる。ディレクターズカット版はさらに長いらしいのだが、性描写が増えるだけなら単に冗長さが増すだけのようにも思えるのだが……。
ラストのオチはラース・フォン・トリアーらしいところへ落ち着いたという感じだった。「欝三部作」(『アンチクライスト』、『メランコリア』、『ニンフォマニアック』)などとも呼ばれる作品だけに、心暖まる結末なんてあり得ないのかもしれない。
期待していたウィレム・デフォーもそれほどの出番はなかったし、ウド・キアに関してはカメオ出演みたいなものだったのは残念。サディスト役でジョーを痛めつけるジェイミー・ベル(『リトル・ダンサー』の少年)はよかったし、シャルロット・ゲンズブールとのレズ・シーンもこなしたミア・ゴス(まだ19歳だとか)はエロかった。
(*1) この『ニンフォマニアック』は、“ポルノ”だと前々から噂になっていた作品だ。しかし風変わりなポルノである。それは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がミュージカルでありながらそれには収まりきらないものがあり、『アンチクライスト』がホラーのようでそれとはやはり違うというように、ラース・フォン・トリアーが撮るとそうなってしまうのだろう。






Vol. 1ではジョーが不感症に陥ったところで終わる。ジョー(シャルロット・ゲンズブール)にとって、セックスでの快感が得られないのは耐え難いこと。それはジョーの告白の聞き手であるセリグマンが、読書による愉悦を得られなくなることのように切実な問題だ。
ここで話は少し過去に戻って、ジョーが初めてオーガズムを経験したときのことへ。草むらで寝転がっていたジョーは、身体が浮かび上がっていくような不思議な感覚を体験する。これはセリグマンの解釈によれば「イエスの変容」の場面ということになる。
ジョーは自分の性的な体験のすべてを、わけのわからない比喩でもって解釈していくセリグマンに苛立ちを見せる。そして、セリグマン(ステラン・スカルスガルド)には性的な経験がまったくないということに気がつく。セリグマンは童貞で、性に対する具体的な感覚を知らないから、本から得た理屈っぽい解釈にばかり頼っているのだと。ここでジョーにたしなめられることで、セリグマン流解釈は出番を減らし、物語はジョーのさらなる性的な探求へと向かい、ラース・フォン・トリアーらしい痛々しい場面も多くなる。
ジョーは夫・ジェローム(シャイア・ラブーフ)とのセックスでは満足を得られない。そのためジェロームは、ジョーがほかの男とセックスすることを望む(これは『奇跡の海』にもあった展開だ)。ジョーは不感症の回復のために、さらに苦行のような行動へと突き進んでいく。言葉の通じない黒人との3Pから始まり、SM的な方向へ探求を進める(第6章「東方教会と西方教会(サイレント・ダック)」)。カウンセリングにも通うことになるが、それを治療するべきものとは捉えず自らを肯定する(第7章「鏡」)。それでも次第に日々の仕事にも支障を来たしたジョーは、借金取りという裏稼業の仕事に手を染めることになる(第8章「銃」)。

『奇跡の海』では主人公ベスは純粋すぎるがゆえに、夫の希望通り街娼のような真似をすることになるわけだが、『ニンフォマニアック』のジョーの場合はどうだろうか。ジョーは夫のためにほかの男と寝ることを選ぶのではなく、自らの性的な探求心ゆえにそうしている。第1章の男漁りでも、女友達が「愛はセックスのスパイス」だとして、純粋な男漁りから離れて愛に向かうのを、ジョーは愉快には感じていないようだった。子供を放置してSMクラブ(?)に通うことを夫に非難されたときも、夫も子育てには向いていないと開き直り、自分の行動を反省するわけではない(というよりも家庭人になってしまったジェロームの変節を非難しているようにも見える)。
ジョーが何に突き動かされているのかはよくわからない。カウンセリングにおいて最後にジョーがこだわるのは、自らが「ニンフォマニアック」であって、「セックス・アディクト」ではないということだ。これは単に言い替えただけだと思うのだが、ジョーにとっては大事なことらしい。セリグマンが「ニガー」を差別用語だとして非難するのにも耳を貸さないあたりにも、ジョーの依怙地な部分が表れているのかもしれないし、ジョーのセクシュアリティという厄介な部分に触れるものがあるのかもしれない。何にせよ、ジョーが自分の存在を重ね合わせる木(山上で風に吹かれて斜めに傾いでいる)が孤独に立っていたように、ジョー自身もこの世に居場所を見つけることは難しいようだ。
Vol. 1のときも「冗長な部分がある」と記したが、Vol. 2はさらに冗長だと思う。ポルノというもの自体はそれほど扇情的なものではないのだろう。(*1)たとえばアダルトビデオは早送りを前提に製作されているのだという(私は某作家の講演でそんなことを聞いた)。裸や局部が映っているというだけのものならば、単に退屈なものなのだ。
この映画でも局部は卑猥さを表現するというよりは、主に笑いを担っている(黒人の巨根に挟まれたシャルロット・ゲンズブールがVol. 2で一番笑える)。だから前後編4時間のポルノというのはいささか長すぎる。ディレクターズカット版はさらに長いらしいのだが、性描写が増えるだけなら単に冗長さが増すだけのようにも思えるのだが……。
ラストのオチはラース・フォン・トリアーらしいところへ落ち着いたという感じだった。「欝三部作」(『アンチクライスト』、『メランコリア』、『ニンフォマニアック』)などとも呼ばれる作品だけに、心暖まる結末なんてあり得ないのかもしれない。
期待していたウィレム・デフォーもそれほどの出番はなかったし、ウド・キアに関してはカメオ出演みたいなものだったのは残念。サディスト役でジョーを痛めつけるジェイミー・ベル(『リトル・ダンサー』の少年)はよかったし、シャルロット・ゲンズブールとのレズ・シーンもこなしたミア・ゴス(まだ19歳だとか)はエロかった。
(*1) この『ニンフォマニアック』は、“ポルノ”だと前々から噂になっていた作品だ。しかし風変わりなポルノである。それは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がミュージカルでありながらそれには収まりきらないものがあり、『アンチクライスト』がホラーのようでそれとはやはり違うというように、ラース・フォン・トリアーが撮るとそうなってしまうのだろう。
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