『わたしは、ダニエル・ブレイク』 為政者の方々にはお薦めかと
『ケス』『ジミー、野を駆ける伝説』などのケン・ローチ監督の最新作。
カンヌ国際映画祭において、『麦の穂をゆらす風』以来の二度目のパルム・ドールを獲得した作品。

還暦間近の大工ダニエル(デイブ・ジョーンズ)は心臓の病気で医者に仕事を止められてしまう。仕事ができないために国の援助を受けようとするのだが、煩雑な制度に阻まれていつになっても給付を受けることができない。同じように給付申請に来ていた子連れのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)も、約束した時間に間に合わなかったことを理由に門前払いされてしまう……。
役所の四角四面の対応はあまりに凝り固まっていてかえって笑えてしまうほどだが、助けを求めにやってきた人々からすればジョークにはなりそうもない。ダニエルは医者に仕事を止められているにも関わらず、対応する職員はいくつかの質問だけで仕事をすることが可能だと判断し、仕事ができるのならば求職活動をしなければ給付は受けられないと言ってのける。
職員たちは規程に則って仕事をしているのだろうが、本来の福祉の理念とはまったく相容れないことをやっていることに気がついていない。さらには偉くなったつもりにでもなってしまうのか、給付申請者の態度の良し悪しに文句をつけたりするばかりで、結局は個々の事情など聞くこともない。点数化された可否判定は本当に助けが必要な人を救うどころか、役所は何もしてくれないということを思い知らせ、申請を諦めさせるためにやっているようにすら見えてくる。
最初は「勘弁してくれよ」と苦笑いだったダニエルも、言われたことをやらないと罰則が科せられるといった脅しめいた対応に無表情のまま去っていくことになる。ダニエルは呆れるのを通り越して静かに怒り狂っているのだ。

弱い者いじめのような役所の対応から比べ、ダニエルの周囲の人々は貧しくても助け合っている。ダニエルは2人の子どもを抱えたケイティの新生活を大工の腕を活かして支えてやることになるのだが、そもそも互いが役所に支援を申請するほど貧しいわけで、どうしてもやはり無理が生じる。ダニエルは家具を売り払って遣り繰りするし、ケイティは空腹にも子供たちの窮状にも耐えかねて身体を売るような仕事にまで手を出すことになる。
貧しい人同士が助け合うのは悪くないけれど限界があるのだ。追いつめられたダニエルはほとんどやけっぱちのように壁に落書きをするのだけれど、自分が間違っていないということも感じているはずで、そこにはしっかりと自分の名前が署名されている。それはこの作品のタイトル『わたしは、ダニエル・ブレイク(I, Daniel Blake)』にもなっている。(*1)包み隠すことなど何もなく堂々と名乗りを上げているのはそうした信念の表れだろう。
そしてまたダニエルが訴えたかったのは、彼はたとえば社会保障番号とかに還元されたりする“何か”ではないし、いくつかの質問に答えて点数化されるような“何か”でもないということだからだ。ダニエルにはダニエルの尊厳があるし、ケイティにはケイティの尊厳がある。それはほかの誰とも違う固有名でしか示せないような“何か”にほかならない。だからこそ彼は「ダニエル・ブレイク」という署名でもってそれを訴えたのだ。
ケン・ローチは前作『ジミー、野を駆ける伝説』で一度は引退を表明していたらしいのだが、それを撤回してまでこの作品に取り組んだのは、ダニエルのような人たちの怒りを放っておくわけにもいかないという義務感のようなものなのだろう。そうしたケン・ローチ自身の怒りにも関わらず、この作品は幾分の気負いも感じさせずユーモアを交えつつ静かな調子で進んでいく。そのあたりが妙にリアリティがある部分だったと思う。結末はシビアだけれど、それは現実がそうであるからにほかならない。
(*1) ケン・ローチには『マイ・ネーム・イズ・ジョー』という作品があるが、これはアルコール依存症の主人公の台詞から採られている。AA(アルコホーリクス・アノニマス)のグループセラピーでは身分とか社会的属性とかから離れた話し合いをするために、ファーストネームしか名乗らないのだとか……。


ケン・ローチの作品

カンヌ国際映画祭において、『麦の穂をゆらす風』以来の二度目のパルム・ドールを獲得した作品。

還暦間近の大工ダニエル(デイブ・ジョーンズ)は心臓の病気で医者に仕事を止められてしまう。仕事ができないために国の援助を受けようとするのだが、煩雑な制度に阻まれていつになっても給付を受けることができない。同じように給付申請に来ていた子連れのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)も、約束した時間に間に合わなかったことを理由に門前払いされてしまう……。
役所の四角四面の対応はあまりに凝り固まっていてかえって笑えてしまうほどだが、助けを求めにやってきた人々からすればジョークにはなりそうもない。ダニエルは医者に仕事を止められているにも関わらず、対応する職員はいくつかの質問だけで仕事をすることが可能だと判断し、仕事ができるのならば求職活動をしなければ給付は受けられないと言ってのける。
職員たちは規程に則って仕事をしているのだろうが、本来の福祉の理念とはまったく相容れないことをやっていることに気がついていない。さらには偉くなったつもりにでもなってしまうのか、給付申請者の態度の良し悪しに文句をつけたりするばかりで、結局は個々の事情など聞くこともない。点数化された可否判定は本当に助けが必要な人を救うどころか、役所は何もしてくれないということを思い知らせ、申請を諦めさせるためにやっているようにすら見えてくる。
最初は「勘弁してくれよ」と苦笑いだったダニエルも、言われたことをやらないと罰則が科せられるといった脅しめいた対応に無表情のまま去っていくことになる。ダニエルは呆れるのを通り越して静かに怒り狂っているのだ。

弱い者いじめのような役所の対応から比べ、ダニエルの周囲の人々は貧しくても助け合っている。ダニエルは2人の子どもを抱えたケイティの新生活を大工の腕を活かして支えてやることになるのだが、そもそも互いが役所に支援を申請するほど貧しいわけで、どうしてもやはり無理が生じる。ダニエルは家具を売り払って遣り繰りするし、ケイティは空腹にも子供たちの窮状にも耐えかねて身体を売るような仕事にまで手を出すことになる。
貧しい人同士が助け合うのは悪くないけれど限界があるのだ。追いつめられたダニエルはほとんどやけっぱちのように壁に落書きをするのだけれど、自分が間違っていないということも感じているはずで、そこにはしっかりと自分の名前が署名されている。それはこの作品のタイトル『わたしは、ダニエル・ブレイク(I, Daniel Blake)』にもなっている。(*1)包み隠すことなど何もなく堂々と名乗りを上げているのはそうした信念の表れだろう。
そしてまたダニエルが訴えたかったのは、彼はたとえば社会保障番号とかに還元されたりする“何か”ではないし、いくつかの質問に答えて点数化されるような“何か”でもないということだからだ。ダニエルにはダニエルの尊厳があるし、ケイティにはケイティの尊厳がある。それはほかの誰とも違う固有名でしか示せないような“何か”にほかならない。だからこそ彼は「ダニエル・ブレイク」という署名でもってそれを訴えたのだ。
ケン・ローチは前作『ジミー、野を駆ける伝説』で一度は引退を表明していたらしいのだが、それを撤回してまでこの作品に取り組んだのは、ダニエルのような人たちの怒りを放っておくわけにもいかないという義務感のようなものなのだろう。そうしたケン・ローチ自身の怒りにも関わらず、この作品は幾分の気負いも感じさせずユーモアを交えつつ静かな調子で進んでいく。そのあたりが妙にリアリティがある部分だったと思う。結末はシビアだけれど、それは現実がそうであるからにほかならない。
(*1) ケン・ローチには『マイ・ネーム・イズ・ジョー』という作品があるが、これはアルコール依存症の主人公の台詞から採られている。AA(アルコホーリクス・アノニマス)のグループセラピーでは身分とか社会的属性とかから離れた話し合いをするために、ファーストネームしか名乗らないのだとか……。
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