『たかが世界の終わり』 自己憐憫の先にあるもの
『わたしはロランス』『トム・アット・ザ・ファーム』などのグザヴィエ・ドランの最新作。
原作ジャン=リュック・ラガルスの戯曲『まさに世界の終り/忘却の前の最後の後悔』。なぜか映画の邦題は「たかが」となっていて、原作とは異なる。「たかが」と「まさに」では意味が違うと思うのだけれど……。この映画の原題も英語版は「It’s only the end of the world」で、フランス語版では「Juste la fin du monde」となっていて、その違いが原作と映画の邦題の違いなのだろうか。

12年も前に家を飛び出したルイ(ギャスパー・ウリエル)は、自分の死期が近いことを告げに自宅へと帰る。久しぶりの再会に家族からの歓待を受けるルイだが、目的となる告白をすることはできずに時間が過ぎていく。昼食後のデザートのタイミングで告白しようと決断するものの、その間の家族のやりとりは穏やかなものではなかった。
ルイは今では劇作家として成功した立場にある。彼がなぜ家を出ることになったのかはわからない。ゲイであることがきっかけかもしれないし、口数少なく愛想笑いばかりのルイにとっては、家族間の言い争いが絶えないこの家は居心地のいい家ではなかったことは推測できなくもない。
次男の帰郷にテンションが上がる母親(ナタリー・バイ)も、ルイが家を飛び出したころには幼かった妹シュザンヌ(レア・セドゥ)もルイを歓待する。その様子を離れたところから窺っている兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)は横から色々とケチをつけてくる。彼らのやりとりは騒がしく、兄嫁のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)はどこか居心地が悪そうにも見える。そんな疎外感において、家を飛び出したルイとカトリーヌはどこかで通じ合っている部分がある。

◆家族間のディスコミュニケーション
戯曲の映画化ということで中心となるのは会話であり、監督ドランはそれをクローズアップの多用で描いていく(役者陣が豪華なのはこのためだろう)。交わされる会話の多くは他愛ないもので、場を繕うためのものにすぎない。12年ぶりに戻ったルイに対してそれぞれ言いたいことはあるはずだけれど、家族が勢揃いした場では騒がしいやりとりがあるばかりだ。
ルイが家族の面々と個々に対話する場面もある。そうなるとルイに対して言いたいことが噴き出してくるのだが、すぐにもそうした言葉は否定されたりもする。「ごめんなさい」とか「別にあなたを非難したいわけではない」なとど取り繕うのだが、否定した言葉のほうが嘘なのだろうとも感じられる。そんな意味では家族といえども(あるいは家族だからこそ)、言いたいことを伝えることは難しいようだ。
大事なことは語られることはないし、語ったとしても本音ではないかもしれないし、本音を言ったところで自分の伝えたいことは相手には伝わらないのかもしれない。そんな感覚が支配しているのだ。
◆伝えたいこと/聞きたくないこと
自らの死を伝えるために戻ってきたルイだが、ルイが不在となった家に残された家族には別の事情もある。それまで一緒に居た人間が消えてしまうわけで、家族の間には何かしらの動揺が生じただろう。後半、特に中心に据えられてくるのはアントワーヌの存在だ。家を出て成功した弟と、家に残った厄介者の兄。そんな関係が前面に出てくる。
多分、アントワーヌはルイの帰郷の理由を理解している。ルイがもうすぐ死ぬかもしれないという悲劇の主人公となれば、ますますアントワーヌの居場所はない。ルイは自分勝手に出て行ったくせに、都合よく帰ってきては家族の中心になり、自分をコケにする。そんなアントワーヌのルイに対する劣等感が最後の騒動へと発展することになる。
激高してルイに殴りかからんとするアントワーヌの瞳は涙で濡れている。哀れに何かを懇願するような瞳と相対したルイは何も言わないことを選ぶ。その瞳にルイは言葉では語り尽くすことのできないものを感じたようにも思えた。
『たかが世界の終わり』は最初から家族のディスコミュニケーションに貫かれているわけで、言葉では言い尽くせないことを描いている。だから私がそれを言葉で説明しようとするのは無粋と言えば無粋だけれど、それを承知でもう少し続ければこんなふうになるかもしれない。
ルイには何らかの理由で死期が迫っている。それを家族に報告するというのは特別なことでもないし、むしろ義務と言ってもいいことだろう。それでも電話で恋人相手に「誰も泣かないかもしれない」などと心配していたように、どこかで自己憐憫があるだろうし、家族からの同情も期待しているわけで、それは結局自分勝手な都合にすぎない。アントワーヌの瞳のなかにそんなことをルイは感じていたようにも思う。
ルイにはルイの都合があるかもしれないけれど、アントワーヌにはアントワーヌの都合がある。ルイには伝えたいことがあっても、アントワーヌは聞きたくないわけで、相手にそれを押付けるわけにはいかない。ルイはそんなことを察したからこそ、何も言わないことを選んだし、声をかけようとするカトリーヌをも仕草で制することになる。家族でもわかりあえないものがある。ただ、その「わかりあえない」という一点だけは共有できたというのは何とも哀しい話ではないだろうか。
手法として奇抜なところはまったくなく、その意味でドランの成長が感じられるとも言えるし、外連味が失われたとも言えるかもしれない。そのあたりはどちらなのかは決めかねるところだろうか。役者陣の演技は繊細だったけれど、会話が長々と続く展開は舞台劇の映画化とはいえしんどい部分もあるだろうと思う。
それでもやはり音楽の選曲は凝っていて、この作品で唯一の愉快なシーンでは「恋のマイアヒ」が登場するのは意図的にハズしているのだろうけど、冒頭とエンディングの曲はこの作品の雰囲気をよく示している。




原作ジャン=リュック・ラガルスの戯曲『まさに世界の終り/忘却の前の最後の後悔』。なぜか映画の邦題は「たかが」となっていて、原作とは異なる。「たかが」と「まさに」では意味が違うと思うのだけれど……。この映画の原題も英語版は「It’s only the end of the world」で、フランス語版では「Juste la fin du monde」となっていて、その違いが原作と映画の邦題の違いなのだろうか。

12年も前に家を飛び出したルイ(ギャスパー・ウリエル)は、自分の死期が近いことを告げに自宅へと帰る。久しぶりの再会に家族からの歓待を受けるルイだが、目的となる告白をすることはできずに時間が過ぎていく。昼食後のデザートのタイミングで告白しようと決断するものの、その間の家族のやりとりは穏やかなものではなかった。
ルイは今では劇作家として成功した立場にある。彼がなぜ家を出ることになったのかはわからない。ゲイであることがきっかけかもしれないし、口数少なく愛想笑いばかりのルイにとっては、家族間の言い争いが絶えないこの家は居心地のいい家ではなかったことは推測できなくもない。
次男の帰郷にテンションが上がる母親(ナタリー・バイ)も、ルイが家を飛び出したころには幼かった妹シュザンヌ(レア・セドゥ)もルイを歓待する。その様子を離れたところから窺っている兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)は横から色々とケチをつけてくる。彼らのやりとりは騒がしく、兄嫁のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)はどこか居心地が悪そうにも見える。そんな疎外感において、家を飛び出したルイとカトリーヌはどこかで通じ合っている部分がある。

◆家族間のディスコミュニケーション
戯曲の映画化ということで中心となるのは会話であり、監督ドランはそれをクローズアップの多用で描いていく(役者陣が豪華なのはこのためだろう)。交わされる会話の多くは他愛ないもので、場を繕うためのものにすぎない。12年ぶりに戻ったルイに対してそれぞれ言いたいことはあるはずだけれど、家族が勢揃いした場では騒がしいやりとりがあるばかりだ。
ルイが家族の面々と個々に対話する場面もある。そうなるとルイに対して言いたいことが噴き出してくるのだが、すぐにもそうした言葉は否定されたりもする。「ごめんなさい」とか「別にあなたを非難したいわけではない」なとど取り繕うのだが、否定した言葉のほうが嘘なのだろうとも感じられる。そんな意味では家族といえども(あるいは家族だからこそ)、言いたいことを伝えることは難しいようだ。
大事なことは語られることはないし、語ったとしても本音ではないかもしれないし、本音を言ったところで自分の伝えたいことは相手には伝わらないのかもしれない。そんな感覚が支配しているのだ。
◆伝えたいこと/聞きたくないこと
自らの死を伝えるために戻ってきたルイだが、ルイが不在となった家に残された家族には別の事情もある。それまで一緒に居た人間が消えてしまうわけで、家族の間には何かしらの動揺が生じただろう。後半、特に中心に据えられてくるのはアントワーヌの存在だ。家を出て成功した弟と、家に残った厄介者の兄。そんな関係が前面に出てくる。
多分、アントワーヌはルイの帰郷の理由を理解している。ルイがもうすぐ死ぬかもしれないという悲劇の主人公となれば、ますますアントワーヌの居場所はない。ルイは自分勝手に出て行ったくせに、都合よく帰ってきては家族の中心になり、自分をコケにする。そんなアントワーヌのルイに対する劣等感が最後の騒動へと発展することになる。
激高してルイに殴りかからんとするアントワーヌの瞳は涙で濡れている。哀れに何かを懇願するような瞳と相対したルイは何も言わないことを選ぶ。その瞳にルイは言葉では語り尽くすことのできないものを感じたようにも思えた。
『たかが世界の終わり』は最初から家族のディスコミュニケーションに貫かれているわけで、言葉では言い尽くせないことを描いている。だから私がそれを言葉で説明しようとするのは無粋と言えば無粋だけれど、それを承知でもう少し続ければこんなふうになるかもしれない。
ルイには何らかの理由で死期が迫っている。それを家族に報告するというのは特別なことでもないし、むしろ義務と言ってもいいことだろう。それでも電話で恋人相手に「誰も泣かないかもしれない」などと心配していたように、どこかで自己憐憫があるだろうし、家族からの同情も期待しているわけで、それは結局自分勝手な都合にすぎない。アントワーヌの瞳のなかにそんなことをルイは感じていたようにも思う。
ルイにはルイの都合があるかもしれないけれど、アントワーヌにはアントワーヌの都合がある。ルイには伝えたいことがあっても、アントワーヌは聞きたくないわけで、相手にそれを押付けるわけにはいかない。ルイはそんなことを察したからこそ、何も言わないことを選んだし、声をかけようとするカトリーヌをも仕草で制することになる。家族でもわかりあえないものがある。ただ、その「わかりあえない」という一点だけは共有できたというのは何とも哀しい話ではないだろうか。
手法として奇抜なところはまったくなく、その意味でドランの成長が感じられるとも言えるし、外連味が失われたとも言えるかもしれない。そのあたりはどちらなのかは決めかねるところだろうか。役者陣の演技は繊細だったけれど、会話が長々と続く展開は舞台劇の映画化とはいえしんどい部分もあるだろうと思う。
それでもやはり音楽の選曲は凝っていて、この作品で唯一の愉快なシーンでは「恋のマイアヒ」が登場するのは意図的にハズしているのだろうけど、冒頭とエンディングの曲はこの作品の雰囲気をよく示している。


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