FC2ブログ

『エリザのために』 変えられないなら利用するしかないじゃないか

 『4ヶ月、3週と2日』(カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作)『汚れなき祈り』クリスティアン・ムンジウの最新作。
 この作品ではカンヌ国際映画祭コンペティション部門で監督賞を獲得した。
 原題は「Baccalaureat」で、英題は「Graduation」。邦題は娘のために奔走する父親の姿をベートーベンのピアノ曲にかけたものだろうか。

クリスティアン・ムンジウ 『エリザのために』 ロメオ(アドリアン・ティティエニ)とエリザ(マリア・ドラグシ)。エリザは優等生だし、親子の関係も微笑ましい。だからこそロメオはエリザのために奔走する。


 留学のために大事な試験を控えたエリザ(マリア・ドラグシ)は、ある朝、暴漢に襲われケガをする。強姦の被害は免れたものの、精神的なショックで翌日の試験の結果はあまり芳しいものではなかった。父親のロメオ(アドリアン・ティティエニ)は、エリザのために自分のコネを最大限に使って留学への道が閉ざされないように奔走する。

 同じルーマニア映画の『私の、息子』でも権力者の母親がコネを使って息子の犯罪をもみ消そうとしていたが、この『エリザのために』もまったく同じようなルーマニアという国の汚点を描いている。
 舞台となる街がどこなのかはわからないけれど、主人公のロメオは外科医としてそれなり成功した立場にある。警察署長(ブラド・イバノフ)とも懇意にしているし、そのつながりで副市長に助けを求め、便宜を図ってもらう。
 『私の、息子』ではバカな息子の罪を傲岸不遜な母親がもみ消そうとするのに対し、『エリザのために』のロメオはそれなりに真っ当に生きてきた人物だし、エリザにも罪はない。たまたま運悪く大事な試験の前日に事件に遭遇したために問題が生じ、そのことでロメオはしがらみを利用して抜け駆けを図ることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『エリザのために』 容疑者の男たちを前にするエリザ。

◆ルーマニアという国の現状
 私はルーマニアのことをほとんど何も知らないのだが、チャウシェスク後の社会はコネが蔓延しているようだし、街にも活気があるようには見えない。野犬があちこちをうろついているし、白昼堂々の強姦未遂事件があっても周囲の人は自己保身からか知らんぷりをしている。作品の冒頭ではロメオの家に石が投げつけられる。これは一体誰の仕業なのか。その疑問に答えが出ることはないのだが、舞台となる街を荒んだ空気が支配していることを感じさせる。

 作品の後半ではロメオは不倫相手サンドラ(マリナ・マノビッチ)の息子マティを一時的に預かる場面があるが、マティは公園の遊具の順番を守らない子供に石を投げつけている。ロメオは慌ててそれをやめさせるけれど、マティに「じゃあ、順番を守らない人をどうすればいいの?」と訊ねられると明確な答えを返すことができない。
 ここでの「順番を守らない」という振る舞いは、ルーマニア社会の上層に位置する人たちが自分たちだけを優遇している様を示しているのだろう。ロメオはそれを利用できる立場にいるが、そうではない人も多いはずだ。
 エリザを襲った犯人は見つかることはないが、容疑者として集められていたのは明らかに外国人と見られる男たちだった。その面通しの帰り際にロメオが容疑者風の男を追って迷い込む場所は、ロメオが居を構える場所とは違ってバラックのような建物が並ぶ底辺の人たちが暮らす地域だったようだ。
 そんな底辺の人たちから見れば、外科医として成功しているロメオは嫉妬の対象となるだろうし、不倫相手の息子マティからしても家族を一番に考えるロメオからいつも放っておかれている立場にあるわけで、ロメオは恨まれるような立場にあるのかもしれない。

◆ロメオの希望と絶望
 ロメオは清廉潔白な人間とは言えないかもしれないし、不倫の関係をずるずると続けていることからも褒められた男でもないのかもしれない。しかし、かつては希望も抱いていたことも語られている。
 ロメオは1989年にチャウシェスク政権が倒れたあと、妻マグダ(リア・ブグナル)とふたりで祖国へ戻ってきたという設定になっている。自分たちが祖国を変えることできるはずだと考えていたわけだが、今となっては何も変わらないということを思い知らされている。
 ルーマニアという国に絶望し、娘のエリザが留学して海外へ出ることが唯一の希望とまで考えているのだ。だからこそ留学のための試験は失敗することのできない人生の最も大事な局面だったわけだが、外部の要因で運悪く躓いてしまったためにロメオは手を汚す羽目になる。
 ロメオは自分の国に絶望しているが、それに甘んじて負け組になるのは女房子供を抱えた男としては我慢ならなかったのかもしれない。妻のマグダは清廉潔白を貫き負け組になることを厭わなかったのかもしれないが、ロメオは国を変えることができないならばそのなかで上手く生きる方を選んだ。そのために利用できるものは利用して今の地位を手に入れたということだろう。その違いが夫婦の距離ともなってしまっている。

 ラスト、ロメオの裏工作に従わず正攻法で試験を乗り切ったエリザの表情にはどこか希望が感じられる(結果がどうなるかはわからないにせよ)。検察が副市長の汚職を捜査していることからも、ルーマニアで何かが変わりつつあることも匂わせてもいる。
 自らの悪事が詳らかにされる前に死んでしまった副市長は逃げ切った世代だし、若い世代にも今後の希望があるのかもしれないのだけれど、転換期を生きるロメオたちは割りを食ったのかもしれないとも思う。それでもルーマニアが変わるなら構わないとでも言うかのようなロメオの態度が悲哀を誘う。

 カンヌ国際映画祭が好みそうな作品で、音楽は一切なく、主人公が駆け回る姿を手持ちカメラで追っていく手法はダルデンヌ兄弟のそれっぽい。ルーマニアというほとんど知らない国が対象となっている点ではほかにないものがあるとは言えるかもしれない。シンプルで悪くはないけれども、『4ヶ月、3週と2日』ほど驚きはないかも……。

エリザのために [DVD]


4ヶ月、3週と2日 デラックス版 [DVD]


汚れなき祈り [DVD]


スポンサーサイト



Date: 2017.01.29 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『汚れなき祈り』 悪魔祓いという純粋な善意

 『4ヶ月、3週と2日』でパルムドールを受賞しているクリスティアン・ムンジウ監督・脚本のルーマニア映画。この『汚れなき祈り』では、カンヌ映画祭の女優賞(コスミナ・ストラタンクリスティーナ・フルトゥル)及び脚本賞を受賞している。

クリスティアン・ムンジウ『汚れなき祈り』 丘の上に立つ修道院

 孤児院で育ったふたり。アリーナはドイツに出稼ぎに行っていたが嫌気がさしてルーマニアに戻り、修道院(正教会)にいるヴォイキツァに助けを求める。アリーナには里親もいるが、ヴォイキツァと一緒にいることを望む(ふたりは同性愛的な関係とも見える)。一方でヴォイキツァは、アリーナに去られたあと修道院で神への愛に慰めを見出していた。
 
 『4ヶ月、3週と2日』でも同様だったが、『汚れなき祈り』でも、ひとりの厄介な女がもうひとりの女のやさしさにつけこんでくる(意図的なものではないが、精神的な病だったり鈍かったりしてそうなる)。アリーナはヴォイキツァの愛を取り戻すことに執着し、そうした権利が自分にはあると勘違いをしている。それに対してヴォイキツァは、修道院を出ることなど考えられず、アリーナへの愛もかつてのそれとは違ったものになっている。アリーナはそれを認めることが出来ずに、ヴォイキツァと神父との関係を邪推し、神父に暴言を吐くなど修道院内であるまじき傍若無人なふるまいをするようになる。
 修道院という閉ざされた世界で、信仰を同じくする者が共同で生活していくのには穏やかな日々があったのだろう。しかしアリーナという闖入者がその平穏さを乱していく。信者でないからと叩き出せばそれで済むのかもしれないが、問題はそう簡単でない。修道院は俗世間とは離れていても、一方で孤児院に対しての援助をはじめ、地元の貧しい人たちを助けるような役割も担っているからだ。
 出稼ぎはうまくいかず帰るところもなく、精神的な病を発症しているものの病院からも追い出されたアリーナを誰が救うべきなのか? 神父は「あなたが神に試されている」などと言われ、アリーナを見棄てるわけにもいかない。正教会の教えに従えば、アリーナの異常なふるまいは悪魔が憑依しているからであり、悪魔祓い(エクソシスム)の儀式によってそれを取り払えば元の姿に戻るだろうということになる。邦題の“汚れなき祈り”とは、神父や修道女たちのある意味で純粋な善意のことだ。
 こうして神父たちの善意でなされた行為によって、アリーナは死んでしまうことになる。暴れるアリーナを十字架のような形の板に縛りつけて運んでいく場面は、『黒い十人の女』(市川崑監督)のワンシーンようだ。極端にデフォルメされた『黒い十人の女』のキャラクターに比べ、『汚れなき祈り』の修道女たちは大真面目だし真に迫っているから怖い。しかも『汚れなき祈り』は実際の事件を元にしているのだというから驚きだ。

『汚れなき祈り』 アリーナ(左側)と修道服のヴォイキツァ
 
 『汚れなき祈り』について、映画評論家の中条省平はこう記している。

「現実の事件に取材したせいか、事実の生々しいリアリティと物語の未整理の荒っぽさとが混同され、ドラマの持続に不要な弛みを生じている。脚本を的確に刈りこめばもっと緊迫感が増しただろう。」 (参考1)


 大学教授でもある中条は難しい言葉を並べてはいるが、簡単に言えば「ちょっと退屈だね」ということだろう。手法的には長回しが多いし、カメラはほとんど固定され、修道院内での会話のやりとりに終始するからだ。『4ヶ月、3週と2日』も手法は同様だったが、違法な中絶手術とあやしい医者の存在が緊迫感を生んでいた。それに対して、アリーナの病を悪魔の仕業だとする修道院内の時代錯誤や、しつこすぎるアリーナと煮え切らないヴォイキツァの姿は、152分の長尺を引っ張るほど緊迫感はない。

 ラストは警察に向かう車のなか。神父と修道女たちを乗せた車のフロントガラスには、街の雑踏が見える。長い間があり、天罰でも起きそうな雰囲気を漂わせる。次の瞬間、隣を走り去った車が泥水を飛ばし、フロントガラスが泥で覆われる。街の雑踏は見えなくなり、外部との断絶を感じさせて映画は終わる。好意的に解釈すれば、丘の上で孤高に立つ修道院の閉鎖的空間を表したのかもしれない。神への愛に盲目になるあまり、世間並の常識さえも見えなくなってしまうというアイロニーだろうか。(*1)

(*1) 『4ヶ月、3週と2日』のラストも似たようなテイストだった。長かった一日が終わり、レストランで向き合うふたり。奥のホールではパーティが行われている。ふたりの手前はガラスに仕切られ、外を走る車の灯りが反射する。外(画面手前)と奥のホール、その騒がしい二つの空間に挟まれて取り残されたようなふたり。語り合う言葉もなく、ひとりが外(つまりは映画を観ている観客)に目を向ける。どちらの作品もあっけなく終わるが、それでいて妙に印象に残る。

(参考1) 引用元はこちら


クリスティアン・ムンジウの作品
Date: 2013.03.23 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (0)
プロフィール

Nick

Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

最新記事
最新トラックバック
最新コメント
月別アーカイブ
07  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03 
カテゴリ
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

タグクラウド


検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
このブログをリンクに追加する
Powered By FC2ブログ


ブログランキングに参加しました。

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

QRコード
QR