『めぐりあう日』 親と子のつながりを感じる時とは
監督・脚本は『冬の小鳥』のウニー・ルコント。
原題「Je vous souhaite d’etre follement aimee」は、フランス語で「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」という意味。これはアンドレ・ブルトンの『狂気の愛』という著作からの引用で、ブルトンが娘に当てた手紙として書かれたものらしい。

ウニー・ルコントの前作『冬の小鳥』という作品は、親に捨てられて孤児院に入れられた韓国人の少女が海外の里親へともらわれていくまでを描いている。この作品は韓国生まれのフランス育ちだというウニー・ルコント監督自身がモデルとなっている。産みの親を知らない女性を主人公とした新作『めぐりあう日』も、ウニー・ルコントの人生に近しいところから生まれた作品だと言えるだろう。
『めぐりあう日』の主人公エリザ(セリーヌ・サレット)は孤児院で育ち、その後養子になり、今では夫と8歳になる息子までいる。産みの親を知らないエリザは、自分が生まれた街であるダンケルクに引っ越してまで産みの親を探そうとする。しかし、法律は母親の側の事情を考慮し、その情報は保護されエリザは産みの親を見つけることはできない。
エリザが産みの親探しをするきっかけは劇中で詳しく説明されることはない。とはいえ自分の出自を知りたいと思うのは当然のことであるのかもしれないし、息子の存在が行動のきっかけと推測されもする。エリザはいわゆる白人で、彼女の夫(=息子の父親)も白人なのだが、息子にはアラブ系の血が混じっていることが示唆される。昨今のテロであるとか、最近の『ディーパンの闘い』などでもフランスでは移民の問題が取り上げられることは多いわけで、産みの母にもそれなりの事情があってのことだと何となく理解できなくもないからだ。

◆何が親と子の血のつながりを感じさせるのか?
たまたま出会った実の親子は、顔などわからなくても互いの関係を認識するのか?
テレビ番組で似たような疑問を犬を使って実験していたものがあった。幼くして里子に出された子犬が、その親と道端でばったり会ったとしたらどうなるかというものだった。その番組では子犬が急に異様なまでの喜び方を示し、たまたま会った犬が自分の親であると理解しているように見える場合もあった(そうでない場合もあった)。犬が何によって親子関係を認識したのかはわからない。もしかすると犬のするどい嗅覚がそれを可能にしたのかもしれないのだが、動物的な勘が失われた人間はどうだろうか。
エリザの母親探しは法律に阻まれて頓挫してしまうものの、エリザと息子はダンケルクという街で暮らしているために、実は母親アネット(アンヌ・ブノワ)と知らないうちにすれ違っているのだ。息子は小学校で働いているアネットと出会っているし、エリザは理学療法士として腰を痛めて治療に来たアネットと接触することになる。エリザはアネットの腰の治療のために彼女をきつく抱きかかえるような施術をする。それはただの治療に過ぎないのだが、アネットはそのときほかの人にハグされるのとは違うものを感じたのかもしれない。
ハグすることで親子の関係を感じるあたりはなかなか感動的だった。また、映画の最後にいささか唐突に引用されるブルトンの言葉には、監督・脚本のウニー・ルコントのエリザのような人たちに対する想いが感じられる。そして、そのエリザの境遇は監督自身の境遇を思わせるわけで、ウニー・ルコント自身がその言葉に救われたところがあるのだろうし、多少勇み足だったとしてもわからないではない。
◆子供の態度と大人の対応
どんな事情があったにせよ自分が親から捨てられたという事実を容易に受け入れることは難しい。エリザも自分から親を探していたにも関わらず、アネットがそれを認めた途端にそれを拒否しようとする。
こうした屈折した感情は前作『冬の小鳥』の少女も示していたものかもしれないのだけれど、『めぐりあう日』のエリザは自分が直面した事態を忘れようとしたのか、男を自宅に連れ込んで一晩のアバンチュールみたいなことを楽しむほどには恵まれているわけで、その分切実さには欠けていた気もする。
『冬の小鳥』で主役を演じたキム・セロンの態度は世界に対しての拒否感を強烈に示していたのだけれど、『めぐりあう日』のエリザは成長してある程度やり過ごすことを学んでいる。大人としての対応ということなのだろうだけど……。
チラシなどのエリザが遠くを見つめる目はシャーロット・ランプリングの主演映画みたいに見えないでもない。ダルデンヌ兄弟の『少年と自転車』そっくりのシーンも登場するし、母親アネットのイメージは『秘密と嘘』のブレンダ・ブレッシンみたいにも見え、どこかで見たようなイメージが結構多かったような気もする。

原題「Je vous souhaite d’etre follement aimee」は、フランス語で「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」という意味。これはアンドレ・ブルトンの『狂気の愛』という著作からの引用で、ブルトンが娘に当てた手紙として書かれたものらしい。

ウニー・ルコントの前作『冬の小鳥』という作品は、親に捨てられて孤児院に入れられた韓国人の少女が海外の里親へともらわれていくまでを描いている。この作品は韓国生まれのフランス育ちだというウニー・ルコント監督自身がモデルとなっている。産みの親を知らない女性を主人公とした新作『めぐりあう日』も、ウニー・ルコントの人生に近しいところから生まれた作品だと言えるだろう。
『めぐりあう日』の主人公エリザ(セリーヌ・サレット)は孤児院で育ち、その後養子になり、今では夫と8歳になる息子までいる。産みの親を知らないエリザは、自分が生まれた街であるダンケルクに引っ越してまで産みの親を探そうとする。しかし、法律は母親の側の事情を考慮し、その情報は保護されエリザは産みの親を見つけることはできない。
エリザが産みの親探しをするきっかけは劇中で詳しく説明されることはない。とはいえ自分の出自を知りたいと思うのは当然のことであるのかもしれないし、息子の存在が行動のきっかけと推測されもする。エリザはいわゆる白人で、彼女の夫(=息子の父親)も白人なのだが、息子にはアラブ系の血が混じっていることが示唆される。昨今のテロであるとか、最近の『ディーパンの闘い』などでもフランスでは移民の問題が取り上げられることは多いわけで、産みの母にもそれなりの事情があってのことだと何となく理解できなくもないからだ。

◆何が親と子の血のつながりを感じさせるのか?
たまたま出会った実の親子は、顔などわからなくても互いの関係を認識するのか?
テレビ番組で似たような疑問を犬を使って実験していたものがあった。幼くして里子に出された子犬が、その親と道端でばったり会ったとしたらどうなるかというものだった。その番組では子犬が急に異様なまでの喜び方を示し、たまたま会った犬が自分の親であると理解しているように見える場合もあった(そうでない場合もあった)。犬が何によって親子関係を認識したのかはわからない。もしかすると犬のするどい嗅覚がそれを可能にしたのかもしれないのだが、動物的な勘が失われた人間はどうだろうか。
エリザの母親探しは法律に阻まれて頓挫してしまうものの、エリザと息子はダンケルクという街で暮らしているために、実は母親アネット(アンヌ・ブノワ)と知らないうちにすれ違っているのだ。息子は小学校で働いているアネットと出会っているし、エリザは理学療法士として腰を痛めて治療に来たアネットと接触することになる。エリザはアネットの腰の治療のために彼女をきつく抱きかかえるような施術をする。それはただの治療に過ぎないのだが、アネットはそのときほかの人にハグされるのとは違うものを感じたのかもしれない。
ハグすることで親子の関係を感じるあたりはなかなか感動的だった。また、映画の最後にいささか唐突に引用されるブルトンの言葉には、監督・脚本のウニー・ルコントのエリザのような人たちに対する想いが感じられる。そして、そのエリザの境遇は監督自身の境遇を思わせるわけで、ウニー・ルコント自身がその言葉に救われたところがあるのだろうし、多少勇み足だったとしてもわからないではない。
◆子供の態度と大人の対応
どんな事情があったにせよ自分が親から捨てられたという事実を容易に受け入れることは難しい。エリザも自分から親を探していたにも関わらず、アネットがそれを認めた途端にそれを拒否しようとする。
こうした屈折した感情は前作『冬の小鳥』の少女も示していたものかもしれないのだけれど、『めぐりあう日』のエリザは自分が直面した事態を忘れようとしたのか、男を自宅に連れ込んで一晩のアバンチュールみたいなことを楽しむほどには恵まれているわけで、その分切実さには欠けていた気もする。
『冬の小鳥』で主役を演じたキム・セロンの態度は世界に対しての拒否感を強烈に示していたのだけれど、『めぐりあう日』のエリザは成長してある程度やり過ごすことを学んでいる。大人としての対応ということなのだろうだけど……。
チラシなどのエリザが遠くを見つめる目はシャーロット・ランプリングの主演映画みたいに見えないでもない。ダルデンヌ兄弟の『少年と自転車』そっくりのシーンも登場するし、母親アネットのイメージは『秘密と嘘』のブレンダ・ブレッシンみたいにも見え、どこかで見たようなイメージが結構多かったような気もする。
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