『散歩する侵略者』 人類の最強の武器は?

 『岸辺の旅』『クリーピー』などの黒沢清の最新作。
 原作は前川知大が主宰する劇団イキウメの舞台とのこと。

黒沢清 『散歩する侵略者』 真治(松田龍平)と鳴海(長沢まさみ)の夫婦、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)が主要な3人。

 黒沢清と言えば、その作品の多くが幽霊が出てくるホラーということになるわけだけれど、今回はSFである。幽霊の話は狭い範囲のものになりがちだ。幽霊は誰かを恨みに思ったり、場所に憑いたりはするけれど、生者の世界の転覆までは考えないからだ(『回路』はそれを狙っていたらしい)。それに対してSFであるこの作品は、宇宙人の侵略を描くことになるために、国家が関わったりもしていて派手なアクションもあったりするエンターテインメントになっている(コメディタッチの部分も多い)。
 土台となっているのはジャック・フィニイの原作『盗まれた街』を映画化した『SF/ボディ・スナッチャー』あたりのボディ・スナッチものなのだけれど、おもしろいのはその侵略者たる宇宙人が人間から“概念”を収集していること。
 たとえば「仕事」という概念を奪われると、奪われた人間は「仕事」という“概念”だけがすっぽりと抜け落ちた人間になってしまう。また「自分」という“概念”を奪われた人間は、「自分」と「他人」といった二分法の考えから解放されることにもなる。“概念”は人間にとって物事を説明するために便利なものであると同時に、それによって縛り付けられて不自由にもなっているということが仄めかされることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『散歩する侵略者』 真治(松田龍平)は散歩しながら概念を収集している。

 松田龍平はいつも何を考えているんだかよくわからない印象な気もするのだけれど、今回の役柄は宇宙人に乗っ取られた加瀬真治という男。病院で保護された旦那を迎えに来た妻の鳴海(長沢まさみ)は様子がおかしいことには気がつくものの、真治の浮気が発覚したばかりということもあって、心配するよりは怒ってばかりいる。
 『盗まれた街』では、自分の伴侶が「外見はまったく変わらなくとも中身が別のものになってしまったら」というところに恐怖があったのだけれど、『散歩する侵略者』の加瀬夫婦の場合はちょっと違う。憎むべき中身が変わったから関係性も新たになるのだ。宇宙人に乗っ取られて今はまだ修行中のような新・真治が真っ当に成長してくれれば鳴海は構わないらしい(これも愛の為せる業なのかもしれないが)。
 もうひとつの筋では、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)が作品冒頭に起きる一家惨殺事件を追う過程でふたりの宇宙人に出会う。ひとりは一家惨殺事件の生き残りである女子高生・立花あきら(恒松祐里)と、彼女を探していた天野(高杉真宙)という青年。こちらではなぜか桜井と宇宙人である天野との間に友情関係のようなものが成立してしまう。

 結末は製作に名を連ねている某テレビ局の「愛は地球を救う」のスローガンのように展開していくことになるのだが、そもそも「愛」という“概念”がなぜ宇宙人をやっつけたのか。
 宇宙人たちは奪った“概念”を共有していたようでもあるし、個体の「死」というものに恐怖を感じてはいなかったように思う。もしかすると個体差みたいなものは彼らにはないのかもしれない。分裂したひとつが真治であり、天野であり、あきらである。もともとひとつのものだし、分裂しても互いに通じているものがあるから個体の「死」にもあまりこだわりはない。
 「愛」の反対は「憎しみ」とか「無関心」だとか言うけれど、どのみち個体差がなければ「愛」も「憎しみ」も「無関心」もない。だから「愛」という“概念”も理解不能だったのかもしれない(だからと言って逃げ帰る必要があるのかはわからないけど)。ただ、真治だけは妻である鳴海と常に一緒に生活していただけに、鳴海という人間から何かを学んで「愛」を感じることができるようになったのかもしれない。

 東出昌大はこの作品ではゲスト的な出演だが、牧師姿で「愛」を語るというおいしいところを演じている。ちなみに東出昌大はこの作品のスピンオフドラマ『予兆 散歩する侵略者』のほうにも出演するらしい。個人的に一番ツボだったのは、長沢まさみの「いやんなっちゃうなあ、もう」という台詞が、古い映画に出てくる杉村春子あたりが言いそうな口ぶりだったところ。

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Date: 2017.09.19 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『三度目の殺人』 「嘘の回想シーン」の受け入れ難さ

 『そして父になる』などの是枝裕和監督の最新作。
 主演は『そして父になる』以来のタッグとなる福山雅治

是枝裕和 『三度目の殺人』 中心となるのはこの3人。よく見ると頬の血の付いているのが福山雅治だけ右頬となっている。


 弁護士の重盛(福山雅治)は友人の摂津(吉田鋼太郎)に頼まれ、殺人の前科を持つ男・三隅(役所広司)の弁護を引き受ける。三隅は解雇された工場の社長を殺し、死体に火をつけたことを認めている。勝ちにこだわる重盛にとっては、この事件に関わることは気が進まない。接見を重ねるたびに三隅の主張はころころと変わり、真実など興味もなかったはずの重盛も事件の真実を追い求めるようになり……。

◆事件のあらまし
 最初から結末に触れてしまうけれど、この映画を最後まで見てもこの事件の全貌がわかることはない。三隅が「空っぽの器」のようだと称されるのは、空っぽだからこそ中身に何でも詰め込めるからだろう。三隅はサイコパスにも見えるし、世界の理不尽な選別に怒る正義漢にも、単なる人のいいおじさんにも見えるのだ。
 三隅の最初の殺人は約30年前に借金取りを二人殺したというもの。この事件の裁判官であった重盛の父(橋爪功)はそのときの判決を振り返って、あのとき死刑にしておけば今回の二度目の殺人は起きなかったと反省の弁を述べる。一方で社会のあり方が犯罪者を生み出すという考えが支配的だったとも語る。三隅は何らかの社会の歪みによって生み出されたモンスターだったということだろう。
 二度目の殺人に関して後半になると明らかになってくるのは、殺された被害者の娘・山中咲江(広瀬すず)が関わっているらしいということ。そして、咲江は殺された父親に性的虐待を受けていたことを重盛たちに告白する。咲江と親しい関係にあった三隅は計画的にその父親を殺し、咲江を虐待から救ったのかもしれないのだ。「空っぽの器」である三隅には何かしらの正義感が入り込んだかのようだ。裁判官であった重盛の父に手紙を出しているところをみると、彼の裁きによって生かされたことの意味を、自分の娘の姿とも重ねられる咲江を救うことに見出したのかもしれない。
 ただ、こうしたことはすべて観客である私の推測だ。三隅が語るように、凡人である多くの人は物事を「いい話」として理解しがちだから、もしかすると真実は別にあるのかもしれないのだ。

『三度目の殺人』 重盛(福山雅治)は三隅(役所広司)との接見を重ねるのだが……。

◆3人の関係性
 三隅が「空っぽの器」だとすれば、重盛もそうだろう。この作品は拘置所でのふたりの対峙が大きなウェイトを占める。繰り返される接見でふたりは次第に近づいていく。ふたりを真横から捉えた場面では、ふたりを遮るガラス板の存在はほとんど無化されて、ふたりの男は鼻をくっ付けんばかりの位置で見つめ合う。さらにその後の場面では、ガラスの映り込みのなかでふたりの顔が重ね合わされることになる。
 重盛の空っぽさはかつて父親のような裁判官を目指していたのに、今では逆の立場である弁護士となっているところにも表れているし、検察官が重盛に放った「犯罪者が罪と向き合うことを妨げている」という言葉を自分のなかに吸収し、今度はそれを三隅に向かって投げかけるところにも表れているだろう。

 3人が雪のなかで雪合戦に興じる妄想の場面では、最後に三人が並んで雪の上に寝転がる。ここでは三隅と咲江が「十字架の形」となっているのに対し、重盛は「大の字」となっている。これは三隅と咲江が何らかの罪を背負っているということなのだろう。三隅と咲江は共謀して咲江の父を殺したのかもしれない。
 また、殺された男の返り血を浴びる場面もそれぞれに描かれている。頬に飛び散った血を、三隅は自分の身体の内側へと向けて拭いさるのに対し、咲江はそれを外側に拭い去る(これは予告編で確認できる)。咲江が降りかかる災難を払いのけるように罪を犯したのに対し、三隅は罪を自ら引き受けたようにも感じられる仕草と言えるのではないだろうか。さらに実際は犯行現場にいるはずもない重盛も返り血を浴びる妄想を抱くのだが、彼は三隅と同様に自分の身体の内側へと拭っている。これは三隅と重盛の立場が同じということでもあるのだろう。タイトルとなっている「三度目の殺人」とは、三隅が自らを死刑にするという結末のことであり、それは重盛の手助けがあって成り立ったのだから。

◆回想の嘘
 裁判の行方は混沌とし、三隅は殺しは被害者の妻(斉藤由貴)に頼まれたからと言い出してみたり、最後には殺人現場には行っていないと裁判の前提部分までひっくり返すまでに至る。これは「いい話」に解釈すれば咲江を守るためということになるわけだが、結局のところ「真実は藪の中」というところに落ち着く。さらにこの作品は返す刀で司法の問題点にまで踏み込んでいき、見どころは多いのだが、なぜだか釈然としない感じも残る。
 作品の冒頭で三隅が男を撲殺し、その死体に火をかける場面が映し出される。神の視点から描かれたかのようなこの場面は、最初の前提となっている。しかし三隅は後半でこの最初の前提をひっくり返すことになる。神の視点かと思われた冒頭の場面は、三隅の証言(=回想)を映像化したものだったということになる。つまりこの作品は「嘘の回想シーン」から始まっていたことになる。
 「嘘の回想シーン」はヒッチコック『舞台恐怖症』という作品で試みていて、それを失敗だったと断じている。

「奇妙なことに、映画のなかである人物が嘘の話をしても、観客はごく自然にうけいれる。あるいはまた、ある人物が過去の話をするときに、それがまた現在起こっているかのようにフラッシュ・バックで描かれても、だれもふしぎには思わない。ところが、フラッシュ・バックで語られる内容が嘘だと観客はまるっきりうけつけない……」(『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』より)

 何が問題なのかと言えば、映像として描かれることは観客にとって真実のように見えてしまうということなのではないか。「私が男を殺しました」と告白するだけならば、証拠はどこにあるのかとすぐには信じがたいわけだが、映像として観客の前に殺人事件が繰り広げられたならば、それが夢でもない限り真実らしいものとして受け入れられてしまう。だからそんな回想シーンが「嘘でした」とひっくり返されるのは観客としてはどうにも受け入れにくいものなのだ。
 もちろん「嘘の回想シーン」をうまく作品に取り込んでいる『羅生門』のような傑作もある。この作品の原作は芥川龍之介『藪の中』だが、この小説ではある事件の当事者3人がそれぞれに異なる証言(回想)をすることになる。つまりは「真実は藪の中」ということだ。しかしこれを映像化するにあたって黒澤明が追加している部分がある。それが当事者以外の木こりの証言だ。
 『羅生門』では当事者3人がそれぞれに自分に「都合のいい話」を語ることになるのだが、それはまるで見てきたかのように映像化されて観客の前に提示される。これはヒッチコックの言う「嘘の回想シーン」ということになる。単なる言葉だけではなく、映像として嘘が展開されると、それは観客には真実とも嘘とも判別することができないし、映像化されたものは真実らしいものとして受け取られることになる。しかし『羅生門』では嘘を並べて終わるのではなく、より客観的な木こりの証言を最後に提示することで真実らしきものを見せ、観客にもすんなりと受け取りやすいものにしていたとも言えるかもしれない(実際には木こりの話にも嘘は存在するのだが)。
 『三度目の殺人』について言えば、「真実は藪の中」というよりも、すべてが嘘ばかりで観客自体も映画そのものに騙されているような気分になってくるのかもしれない。その感覚はラストで重盛がたたずむ十字路と似たようなものなのかもしれないのだけれど、やっぱりモヤモヤしたものを感じてしまう。

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Date: 2017.09.16 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『ダンケルク』 陸海空のすべての戦いを体験する

 『ダークナイト』『インターステラー』などのクリストファー・ノーランの最新作。
 イギリスでは誰もが知っているという「ダンケルクの戦い」という実話の映画化。「ダンケルクの戦い」というのは実は撤退戦で、第二次大戦中の1940年にフランスのダンケルクに追い込まれたイギリス兵たちの負け戦を描いている。

クリストファー・ノーラン 『ダンケルク』 主役のひとりトミーを演じたフィン・ホワイトヘッドは新人だとか。

 『ダンケルク』は3つのパートに分かれている。ダンケルクの浜辺で救出を待つ40万人のイギリス兵たちのパート。ここでは船に乗るために四苦八苦するトミー(フィン・ホワイトヘッド)が視点となって描かれていく。次にそれを救出に向かう民間人である小型船所有者のドーソン(マーク・ライランス)とその同行者たちのパート。そして、空でドイツ軍を迎え撃つ空軍パイロット・ファリア(トム・ハーディ)のパート。
 陸海空のすべての戦いが同時に進行していくのだが、実はタイムスパンはまったく異なる。陸では1カ月が経過するのだが、海では1週間、そして空は1時間という短い時間となる。だから場面が変わると昼の場面から夜の場面へと一気に時空を越えたりもするし、それぞれのパートの視点で同じ場面が繰り返されるために時間が遡ったりするように感じられる部分もある。たとえばファリアが空から見ていた沈没船の場面は、その後に海のパートでなぜ沈没するに到ったかという点が詳しく描写されることになり、最終的にはそれぞれのパートが交じり合って撤退戦の成功を導くことになる。

『ダンケルク』 船を待つイギリス兵たち。固まっているところを空から狙い撃ちされる場面が恐ろしい。

 冒頭で閑散とした街を逃げ回っていたトミーがドイツ軍の攻撃を受ける場面でも、ドイツ軍の姿は一切見えない。カメラは徹底的にイギリス軍の側に留まり、観客もイギリス軍の立場からこの戦いを体験していくことになる。散発的な銃撃も、不気味な音と共に出現する空から攻撃も唐突で、追いつめられたままダンケルクの浜辺に篭城する形になったイギリス側は為す術もない。
 この作品ではほとんど物語の起承転結といったものは放棄されている。浜辺に足止めされたイギリス兵たちは生き延びることだけが目標となっていて、そのためか説明的な台詞も排除されている。トミーは生き延びるために負傷兵を運んで救助船に乗り込もうとし、フランス兵なのにイギリス兵の軍服を着て紛れ込もうとするギブソン(アナイリン・バーナード)についても、その行動についての説明などない。ただ誰もが生き延びるためだけに行動しているから説明など不要なのだ。だから観客もそうした兵士と一緒になって地獄のような世界を連れまわされることになる。冒頭からハンス・ジマーの時計の音をモチーフにした音楽が響き不安感を煽り続けることになるのだが、その音が止まった瞬間の静けさが安堵を誘う。

 蓮實重彦クリストファー・ノーランのことをどこかで「アイディアの人」と言っていた。確かに『メメント』の時間軸の操作は革新的なアイディアだったと思う。それと比較すればこの作品の時間軸の操作は目新しいとは言えないだろう。ただ、イギリス以外ではあまり知られていない「ダンケルクの戦い」を効率よく世界中の観客に体験させるための工夫としてははまっていたかもしれない。
 アイディアの面では特出していなくても、リアル志向のほうでは特出している。スピットファイアーという戦闘機も本物を使用しているらしく、ミリタリーマニアなんかが見れば垂涎ものらしい。スピットファイアーだろうが零戦だろうか飛行機としか判別できない私のようなミリタリーオンチには猫に小判みたいなものなのかもしれないけれど、それでも何かしらのリアリティは伝わっているはず。CGで塗りこめたような映像を見たいとは思わないので、リアル志向は今後も維持していってもらいたい。というかリアル志向はほとんどノーランの意地みたいなものすら感じるほどの徹底ぶりなので、こちらが心配することもないと思うけれど……。

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Date: 2017.09.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (11)

『新感染 ファイナル・エクスプレス』 韓国発ゾンビ映画に震撼せん

 監督のヨン・サンホはアニメ畑の人らしいのだが、今回が初の実写作品。
 9月30日からはこの作品の前日譚となるアニメ作品『ソウル・ステーション パンデミック』も公開されるとのこと。
 評判の悪い邦題はダジャレだが、原題は「Train to Busan(釜山行き)」というもの。
 主演には『トガニ』『男と女』などのコン・ユ。共演にはやはり『トガニ』に出ていたチョン・ユミ。そのほかでは身体を張った闘いを見せることになるマ・ドンソク『殺されたミンジュ』など)がいい味を出している。前にもプロレスラーの川田利明に似ていると書いたけれど、マ・ドンソク自身もボディビルをやっていた人らしく、道理でガタイがいいわけである。

ヨン・サンホ 『新感染 ファイナル・エクスプレス』 列車を舞台にしたゾンビ映画!

 釜山へと向かう超特急列車のなかにゾンビが入り込み、密室となる列車のなかでゾンビが増殖していくというパニックムービー。たった一人の感染者からゾンビがゾンビを生むという事態となり、密室空間である列車のなかは壮絶な様相を呈することになる。この作品のゾンビたちはスピードがあり、ほとんど人間と変わらぬ全速力で襲ってくる。人間たちも必死になって逃げようとはするものの、ほとんど逃げ場がないのが恐ろしいところ。
 ただ、列車は車両ごとに区切ることができるからゾンビと人間はつかの間住み分けることができるし、トンネルに入って暗闇が支配すると、ゾンビは見えないものの存在をすっかり忘れてしまうらしく、しばらくは安全地帯となる。
 同じ韓国映画の『スノーピアサー』はゾンビは出てこないけれど列車という空間を階級社会に見立てた作品となっていて、生きるために敵のなかを突き進まなければならないところが似ている。『新感染 ファイナル・エクスプレス』は列車という密室をうまく使ってハラハラドキドキを最後まで持続させていく。
 しかもこの作品では銃が活躍する場面がない。昨年評判のよかった日本のゾンビ映画『アイアムアヒーロー』では、趣味が射撃という無理な設定をしてまで主人公に銃を持たせていた。というのも銃がなければゾンビを止める手段がないからだろう。『新感染』では野球部の青年はバットを使ったりもするけれど、ほとんど徒手空拳でゾンビたちを相手にしなければならないわけで絶望的な状況が続いていくことになる。

『新感染 ファイナル・エクスプレス』 身重の妻のために身体を張るサンファ(マ・ドンソク)。その後ろには主人公ソグ(コン・ユ)も。

 監督のヨン・サンホ「『ザ・ロード』のような、滅亡していく世界での中での親子の関係を描きたい」と語っているように、この作品はゾンビ映画でありながら父と娘の関係を描く感動作ともなっている。
 主人公のファンドマネージャーのソグ(コン・ユ)は生き馬の目を抜くような業界で生きているからか、自分のことだけしか考えない。密室でのゾンビ発生という極限状態のなかでも他人に気づかいを見せる娘スアン(キム・スアン)には、人を蹴落としてでも生き延びることを教えようとするソグだったのだが、ゾンビと闘ううちにソグ自身が娘のため人のために生きることを学んでいくことになる。
 ラストでスアンが父のために覚えた歌を披露することになるのは、この壮絶な旅路で父親の存在をしっかりと確認することができたからだろう。まさかゾンビ映画で泣けるとは思っていなかったけれど感動的なラストだった。

 町山智浩によれば、ソウルを制圧したゾンビ軍が釜山へと押し寄せていく本作は「朝鮮戦争勃発時の北朝鮮軍の侵略の悪夢をベースにして」いるとのこと。また、車両のドアひとつで人間とゾンビとに分断され、反対側に生き別れた家族の姿を見つけるという場面あたりにも、韓国の政治状況なんかが垣間見えるのかもしれない。
 とはいえそんなことは考えなくても抜群のエンターテインメント作となっているのは間違いない。走り出した列車に上に架かる駅舎からゾンビたちがボロボロと落下して襲いかかってくるとか、笑ってしまうほどのゾンビの大群とか、ひたすらに憎たらしいバス会社の重役とか、描写も極端なほどに徹底している。追われる側の人間たちの絶望的状況たるも凄まじいもので、韓国映画のエネルギッシュなところがいい方に作用して見どころ満載の作品となっていたと思う。

アイアムアヒーロー


Date: 2017.09.07 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『エル ELLE』 一筋縄ではいかない感じ

 『ロボ・コップ』などのポール・ヴァーホーヴェン監督の最新作。
 原作は『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』の原作者でもあるフィリップ・ディジャンの小説『oh...』。
 第74回ゴールデングローブ賞で最優秀主演女優賞と最優秀外国語映画賞を受賞した作品。

ポール・ヴァーホーヴェン 『エル ELLE』 ミシェルを演じるイザベル・ユペールはアカデミー賞の主演女優賞にもノミネートされた。

 冒頭、ミシェル(イザベル・ユペール)が侵入してきたマスク姿の男に自宅でレイプされたことが示される。驚くのはその後のミシェルの行動で、彼女はレイプされた女性がするであろうと思われるごく普通の反応を見せることがない。泣きながらシャワーと浴びたりもしないし、助けを呼んだり警察に訴えたりもしない。それどころか出前で寿司を注文し、息子と一緒に何事もなかったような顔をして食べているのだ(しかもハマチを追加注文している)。
 ミシェルは子供のころに父親が大量殺人を犯して逮捕されたこともあり、犯罪者の娘として世間から冷たい目で見られてきたようだ。街の喫茶店では見知らぬ女性から残飯をぶちまけられるというひどい目に遭ったりもするのだが、ミシェルは泣き喚いたり怒りを露わにしたりはしない。
 もちろんレイプに関してはミシェルにとって好ましくない事態であるわけで、その後防犯対策を練ったり、病気に関して調べたりもする。ただ、それがトラウマになっているのかどうかはよくわからない。レイプの場面がフラッシュバックとして蘇るシーンが二度あるのだけれど、二度目ではレイプ犯に逆襲することを夢想してにんまりと微笑んだりもするのだ。トラウマの回帰というよりは、復讐を楽しみにしているかのようにすら見えるのだ。

『エル ELLE』 親切な隣人の男性と暴風対策をするミシェル。

 今までも色々と物議を醸し出す映画を撮ってきたポール・ヴァーホーヴェン。この作品のミシェルの行動原理も常人の観客としてはわかりかねるところもあった。人間は誰しも類型的なキャラとして描けるようなものではないのだろうけれど、それにしても……。
 たとえばレイプされる女主人公はヴァーホーヴェンの1985年の作品『グレート・ウォリアーズ/欲望の剣』にも登場する(この作品は昨年のベスト10にも入れたかったくらい)。ここでは女主人公はレイプの張本人である無法者の男に色目を使うことで生きていく。彼女の行動原理は無法地帯で生き延びていくということだから、その行動は理解できないものではないのだが、それに対して『エル ELLE』の主人公ミシェルの行動原理は複雑すぎてよくわからないのだ。
 ミシェルはゲーム会社の社長であり、そこで製作しているゲームは、女主人公がモンスターと闘いながらも最後は光の戦士として復活を遂げるという物語となっていた。多分、この作品自体もそうした展開をしていくことになるのだけれど、ヴァーホーヴェンの描き方はどこまでも曖昧で様々な解釈の仕方がされそうだ。
 この作品の感想なりレビューなりを読んでいると、人によって見方がかなり違う。ミシェルは「強い女性である」と語る人もいれば、ミシェルは「強い女性というわけではなく……」と論を進める人もいる。ラストも「復讐が成し遂げられた」とする人もいれば、普通のレイプものとは違って「復讐を目指したものではない」と語る人もいる。私はと言えば、たまたま偶然にそうなってしまったとしか思えなかった。ミッシェルはそこまで策を弄してラストの出来事を導いたということなのだろうか?
 ミシェルは嘘をやめると宣言していた。最後にミッシェルと会話を交わすことになるレイプ犯の妻は、レイプでしか感じない旦那の性的嗜好を知っていながらも、それを許していたらしい。レイプ犯の妻は敬虔なキリスト教徒であり、熱心に巡礼の旅に向かったりもする人物である。こんなふうに世の中が嘘だらけなわけで、そのなかで闘うためには正当な方法では無理だろう。だからこそあんな方法が選択されたということなのかもしれないのだが、なかなか一筋縄ではいかない作品だったと思う。

 この作品は最初アメリカで製作しようとしていたものの、題材が題材だけに軒並み女優陣に断られて企画倒れになったらしい。オファーを受けてくれる可能性がある女優としてヴァーホーヴェンが名前を挙げていたのが『グレート・ウォリアーズ/欲望の剣』の主演女優であるジェニファー・ジェイソン・リーだったのだが、「知名度の不足から起用に至らなかった」のだとか(ウィキペディア調べ)。ジェニファー・ジェイソン・リーがやったとすればもっと勝ち気な主人公になって複雑さは感じられなかったかもしれない。イザベル・ユペールのミシュルは超然とした態度がかえっておかしみを感じさせるものとなっていて絶妙だった。

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Date: 2017.09.02 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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