『万引き家族』 童貞なのに父になる?

 『そして父になる』『海街diary』などの是枝裕和監督の最新作。
 カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作。これは日本映画としては『うなぎ』(今村昌平監督)以来21年ぶりの快挙。

是枝裕和 『万引き家族』 カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作。

 タイトルにあるように“万引き”をするシーンもあるけれど、中心となる元ネタとしては2010年に明らかとなった年金不正受給問題が扱われている。是枝監督は『海街diary』とか『そして父になる』のように稼ぎたいどこか(テレビ局?)からの持ち込み企画と思わしき作品をやりつつも、『誰も知らない』や本作のように社会問題を取り上げてみたりもする。
 さらにそのどちらも商業作品としてある程度成功させつつも、映画作家としてかねてからのテーマ「家族のあり方」を問う作品ともなっている。商業性と作家性の両輪をうまく回しているあたりは稀有な存在なのかもしれない。この『万引き家族』は泣かせる作品にもできたのだろうがそうはせず、冷静な目で家族の行く末を追っていく作品となっている。

 年金不正受給のような問題がメディアで取り上げられる際には、皮相だけを見て「けしからん奴らだ」という論調になりがちだ。個人的にはそういった怒りよりも、親の死を隠蔽してまでその年金を受け取り続けなければ生きていけない家族があちこちにいることが驚きだった。是枝監督は、もしかしたら実際にはこんな事情があったのかもというところに想像力を働かせてこの作品を作り出している。
 ここで登場する家族は、治(リリー・フランキー)が作品冒頭で拾ってきたリン(佐々木みゆ)を含めて6名。治が祥太(城桧吏)に教えているのは“万引き”だから清廉潔白ではないにしても、子供を冬空のベランダに放り出して省みないリンの親よりはマシな家族だろうという気にもなる。しかし実際には、この家族は偽りの家族であることが次第にわかってくることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『万引き家族』 亜紀(松岡茉優)と信代(安藤サクラ)は拾ってきたリン(佐々木みゆ)を家族としてかわいがる。

◆なぜ偽りの家族が必要だったのか?
 息子に見えた祥太は治が拾ってきた子だし、治と信代(安藤サクラ)も夫婦ではない。祖母に見える初枝(樹木希林)と、治あるいは信代との間にも血縁関係はない。亜紀(松岡茉優)は初枝の元旦那が新しい奥さんとこしらえた子供だから、ここにも血縁関係はない。結局、6人に血のつながりは皆無ということになる。
 それではなぜ偽家族が必要なのか。亜紀は実家に居場所がなくて初枝のところで暮らしている。そのほかも似たようなもので、居場所がないからそこにいるということになるだろう。治たちが初枝の年金をあてにしているように、初枝自身も亜紀との関係を利用しているフシもあり、その絆は善意だけのものではない。しかし、たとえ偽家族がそれぞれを利用し合うような関係だとしても、祥太が語る絵本『スイミー』のエピソードではないけれど、みんなで身を寄せ合うことで生き永らえているという意味で偽家族は必要とされているのだろう。
 おもしろいのは祥太と信代の関係。ふたりの過去には信代の元旦那を治が殺したという事件があった。しかしそれでいて治と信代は肉体関係がなかったらしい。ふたりのセックスのあとに、治は「できたな」と驚いている。最初は「久しぶりにできた」という意味かと私は思っていたのだけれど、『キネマ旬報』金原由佳の作品評によれば、治は童貞という設定なんだとか。なぜふたりがそんな関係だったのかと言えば、治は様々なことを学ぶ機会がなかったからなんじゃないだろうか(真っ当な男女関係のことすら学ばなかった)。

◆祥太の学んだこと
 この偽りの家族が崩壊するのは、祥太が起こした事件がきっかけとなる。自分が“万引き”をするところまでは許容できた祥太も、妹のようなリンを巻き込むことはためらいがある。家族のことが外部の大人に知られてしまうと、家族の関係性そのものが崩壊してしまうというのは『誰も知らない』にもあったシチュエーションだ。
 しかし『誰も知らない』の明(柳楽優弥)には、学ぶべき大人の存在がなかった。一方で『万引き家族』の治には、“万引き”しか教えられないダメな偽りの父親だったとしても近くに大人がいた。治のような親でも反面教師になることがあるわけで、祥太は治を見てこのままではいけないということを悟ったのだろうと思う。その意味では『誰も知らない』の明よりは、『万引き家族』の祥太のほうがずる賢く生きる力を学んだということになるだろう。
 世の中には様々な家族の形がある。リンの家族は血縁関係があるけれど、共同生活は機能しておらず、リンは存在を否定されている。信代たち偽りの家族がハグによって「ここに居てもいいんだよ」とリンに教えたのとは対照的だ。どんな家族が正しいのかに答えなどないわけで、ダメな家族なら逃げ出す自由があったほうがいい。それに縛られて苦しむくらいならそれを捨てて、血縁とは別の家族のあり方を模索するのも悪くはないのだろう。

 JK見学店で働く松岡茉優のいつもの笑顔とは違う役柄も印象的だったし、樹木希林のおばあさん役もさすがで毒のあることをやりつつも何となく許せてしまうあたりは独壇場だった。なかでも一番光っていたのは安藤サクラだろうか。後半警察に捕まってからの表情には憑き物が落ちて生まれ変わったような美しさがあった。

キネマ旬報 2018年6月下旬号 No.1782


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Date: 2018.06.20 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『Vision ビジョン』 自己陶酔の新しい形?

 『光』『あん』などの河瀨直美監督の最新作。
 カンヌ映画祭の常連の河瀨直美が、そこでジュリエット・ビノシュと出会って出来上がった作品らしい。
 なぜかプロデューサーにはEXILE HIROが名前を連ねている。

河瀨直美 『Vision ビジョン』 ジュリエット・ビノシュ演じるジャンヌは、アキ(夏木マリ)に植物の話を聞くと……。


 フランス人エッセイストのジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)が奈良県吉野の山奥にやってきたのは“Vision”という植物を探すため。ジャンヌはそこで山守を務める智(永瀬正敏)と出会うことになり……。

 これまでの河瀨直美作品が特段難解だと思ったこともなかったのだけれど、この作品はまったく意味がわからなかったというのが正直なところ。
 トンネルを抜けて森の奥に入るとそこは異世界で、時間の感覚が狂い現在も過去も同時に存在するような世界になるらしい。森の中心に位置する神秘的な大木や、その前で森の神に奉納するかのような舞を踊るアキ(夏木マリ)なんかから推測するに、『朱花の月』にも垣間見られた神話的な世界を描こうとしているのだろう。
 ジャンヌが奈良へとやってきたのは“Vision”という植物のためということだったはずなのだけれど、それがいつの間にかに森のなかで起きようとしている1000年に一度の出来事への関心へと移行する。しかし後半では、“Vision”とどんな関わりがあるのかわからないジャンヌの過去の話へと移り、ジャンヌの息子らしき鈴(岩田剛典)という青年の話になっていく。そうこうするうちに森の一部が炎によって焼かれることで何かが回復したらしい。
 自分でも何を書いているのかわからないのだが、この作品をどのように解釈すればいいのか見当もつかない。森のなかの神話的世界に親しく接している人なら理解できるのだろうか。呪術的世界から離れて暮らす多くの凡庸な観客には共有している前提が違うのかもしれない。とにかく「わかる人にはわかる」といった作りになっていて、傲慢さすら感じさせる。
 あまりにわからないので悪口すら言い難いのだけれど、ジュリエット・ビノシュ永瀬正敏のセックスシーンは酷くぎこちなかった。フランスを代表する女優に遠慮してしまったのかもしれないし、河瀨組の演出方法が問題だったのかもしれない。
 河瀨組の撮影現場では役者陣は与えられた役になり切っていて、相手役の人と接するのも撮影のときに限られているのだとか。だから休憩時間や待ち時間に相手とコミュニケーションを図ることすらできないらしい。演出方法としてはおもしろいのかもしれないけれど、演じる場面によっては具合が悪いものにもなっているように感じられた。
Date: 2018.06.14 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『ビューティフル・デイ』 望んだ自分にはなれなくて

 監督は『少年は残酷な弓を射る』などのリン・ラムジー
 原題は「You Were Never Really Here」
 カンヌ国際映画祭で男優賞(ホアキン・フェニックス)と脚本賞を獲得した作品。
 前回取り上げた『ファントム・スレッド』と同様に、音楽はジョニー・グリーンウッドが担当している。

『ビューティフル・デイ』 ニーナ(エカテリーナ・サムソノフ)とジョー(ホアキン・フェニックス)のふたり。

 売春組織から少女を救い出す仕事を請け負って生計を立てているジョー(ホアキン・フェニックス)。過去のトラウマで自殺願望を抱くジョーは、ビニールを被り呼吸困難に自らを追いやるなど死に囚われた状態にある。それでも仕事をこなしているのは、老いた母(ジュディス・ロバーツ)がいるからで、母の存在だけがジョーをこの世に引き止めている。
 断片的な映像からはジョーの過去に何があったのかを詳細に知ることは難しい。父親からの虐待や、軍人だったころの悲惨な光景、そんな場面が度々ジョーを襲っては苦しめている。この作品の原題は「You Were Never Really Here(あなたはここにいなかった)」であり、この言葉の指すものはジョーの置かれた状況ということだろう。ジョーは自殺願望で今そこに居ながらも、あの世を見ているようでもあるからだ。「心ここにあらず」というやつだろう。
 そして、ジョーが助けることになるニーナ(エカテリーナ・サムソノフ)という少女も似たような立場にある。ニーナは売春組織に売られ酷い目に遭ったのか、ジョーがそこから救い出してもほとんど茫然自失の状態にあるのだ。

『ビューティフル・デイ』 ジョーは母親を殺した男を痛め付けるのだが……。

 物語は助けたニーナを巡ってさらに血生臭い事態へと展開していくことになるのだが、監督リン・ラムジーが狙っているのは少女を助けるヒロイズムとか暴力描写にあるのではないようだ。
 妙に印象に残るシーンがある。一度は助けたニーナはある男たちに奪い返され、ジョーの自宅では彼の母親も殺害されている。ジョーは母親を殺した男を問い詰めてニーナの居場所を吐かせることになるのだが、その場面がちょっと変わっている。
 というのも、ジョーが男を残酷な方法で殺し、仇討ちをするわけではないからだ。この場面ではラジオから流れる「I've Never Been to Me」という曲を男が口ずさみつつ、ジョーの手を握りながら死んでいくのだ。
 この曲は日本では「愛はかげろうのように」というタイトルで知られているもの。その歌詞は、夢のような生活をしたこともある女性が自らの過去を振り返って、それでも「本当のわたしにはなったことがない」と語るものだ。意訳をすれば、望んだ自分にはなれなかったということになるだろう。この歌詞が死んでいく男の気持ちを代弁しているのは言うまでもない。
 死んでいく男は、ニーナを食い物にする大物政治家の依頼で仕事をしたものの、そのために自分が死ぬ羽目になる。少女を自分のものにしたいがためにあらゆる手段を使うおぞましい人間のために、なぜ自分が死ななければならないのか。そんな虚しさが「I've Never Been to Me」の歌詞と通じているわけで、その男がジョーの手を握ったのは、ジョーの置かれた状況(「You Were Never Really Here」)を察したからなのだろう。誰もがままならない人生を歩んでいるという部分で共通しているのだ。

 この作品のラストには、一応「一筋の光」のようなものが見出せるのかもしれない。それは前作『少年は残酷な弓を射る』でも同様だった。ただ、ラストの「一筋の光」のほうに重きがあるようには思えないのだ。というのも、『少年は残酷な弓を射る』も『ビューティフル・デイ』も、全体的には圧倒的に嫌な気持ちになる作品だからだ。
 この作品の日本版のタイトルは「ビューティフル・デイ」となっていて、これはニーナが外の景色を見てつぶやいた一言だ。それはあまりに唐突と言えば唐突で、逆説的な意味合いとも感じられた。たとえば「死ぬにはいい天気ね」とでも言っているかのように……。最後に「一筋の光」を見せているようでいて、そこまでの真っ暗闇を描きたかったというのがリン・ラムジーの本音なんじゃないだろうか。この暗さがちょっとクセになる。



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Date: 2018.06.07 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『ファントム・スレッド』 PTAのオブセッション?

 監督は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ザ・マスター』などのポール・トーマス・アンダーソン
 主演にはこの作品が引退作とも噂されるダニエル・デイ=ルイス。前にもそんな話はあったから、またやる気になれば復活するのかもしれないけれど……。
 
『ファントム・スレッド』 仕立て屋のレイノルズ(ダニエル・デイ=ルイス)はアルマ(ヴィッキー・クリープス)をモデルとして見初める。


 1950年代のロンドン。イギリスのファッション業界の中心にいる仕立て屋のレイノルズ(ダニエル・デイ=ルイス)。彼と姉のシリル(レスリー・マンヴィル)が切り盛りするハウス・オブ・ウッドコックは、レイノルズの仕事のための場所であり、それを邪魔するものは排除されていく。ある日、新しいモデルを必要としていたレイノルズが、たまたま入った店でウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)のこと見初めるのだが……。

 出会ったその日に声を掛けられ、家にまで招待されたアルマはウェイトレスの生活から脱出できると喜んだかもしれないのだが、レイノルズが求めるものは普通の男性とは違うことがわかって困惑したかもしれない。
 レイノルズにとってはアルマのよさはその体型の素晴らしさにあって、女性としてアルマを見ているわけではないからだ。完璧主義者で気難しいレイノルズは、アルマの生活音すら嫌悪する。彼にとっては仕立て屋としての仕事がすべてであり、それ以外のことに興味はないのだ。
 一方でアルマとしては自分でも気がつかなかった点を褒められたことは嬉しかっただろうし、社会的地位も経済的豊かさも持っているレイノルズの傍にいることは望むべきところ。願わくばモデルとしてだけではなく、女性としても愛されることを。そんなふうに思うことは自然の流れ。何とかしてレイノルズを振り向かせようと必死になる。

『ファントム・スレッド』 ドレスを着たアルマ。優雅な場面には優雅な音楽が流れる。

 タイトルが指すものはレイノルズに関わることだから主役は男のほうだと思っていたし、どちらかと言えばどんくさいアルマという女性が内に秘めたるものに気づくこともなかったのだけれど、映画が終わってみれば本当の主役はアルマのほうで、彼女がいかにしてレイノルズを攻略していくかという物語だと判明する。
 アルマがどこまで戦略的にそれを狙ったのかはわからないけれど、レイノルズの母親に対する異常なまでの執着は理解していたはず。レイノルズがドレス作りに打ち込むのはそこに亡くなった母の想い出があるからであり、極論すれば母のために仕事をしているのだ。
 だからアルマが毒キノコでレイノルズの身体を機能停止状態にさせることで、自らがレイノルズの母親代わりとなれることを発見したとき活路を見出したのだろう。夢のなかに現れたウェディング・ドレス姿の母親は、アルマが登場することでその位置をアルマに譲る。それも丁寧に描かれているから見落とすこともないだろう。
 母親のために仕事をしていたレイノルズが、母親代わりのアルマに看病されることに幸福感を抱いたとしてもおかしくはない。もちろん完璧主義者のレイノルズがそれを放棄するまでには紆余曲折があるけれど、赤ちゃんのようにアルマに身をゆだねるのも案外悪くはないんじゃないか。そんな甘美さが最後の共犯関係のような場面には見え隠れしていて、意外にも微笑ましいラストだったのだ。ちなみに町山智宏によれば、ラストは『快楽』マックス・オフュルス監督)のエピソードが元ネタなんだとか……。

 『ファントム・スレッド』を観ながら思ったのは、監督ポール・トーマス・アンダーソンの実体験なんじゃないかということ。町山智宏はインタビューの際にそのことを監督本人に確認しているらしい。とはいえ実体験というだけではなく、主従関係を巡る争いという主題は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ザ・マスター』などにも強烈な形で描かれているわけで、ポール・トーマス・アンダーソンにとってのオブセッションとも言える。
 今回は男と女という関係もあり、駆け引きは複雑さを増し、優雅さも加わったようだ。男と男の争いには殺伐とした凄みがあったけれど、ここでは男は女に諸手を挙げて降参する形。それも悪くはないんじゃないかと思った。
 ロマンチックな出会いの場面から、後半の主導権を巡るサスペンスまでを彩るジョニー・グリーンウッド(レディオヘッド)の音楽もとてもいい。

快楽 [DVD]



Date: 2018.06.04 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『レディ・バード』 Ladybird, ladybird, Fly away home.

 『20センチュリー・ウーマン』『フランシス・ハ』などに出演していたグレタ・ガーウィグの監督作品。これまでも脚本などは手がけていたグレタ・ガーウィグの初の単独監督作となるとのこと。
 
グレタ・ガーウィグ 『レディ・バード』 主人公のレディ・バードを演じるシアーシャ・ローナン。赤毛は『20センチュリー・ウーマン』のグレタ・ガーウィグの役柄と共通している。

 この作品は監督で脚本も書いているグレタ・ガーウィグの自伝的要素が入っているとのこと。グレタ・ガーウィグが脚本を書いていた『フランシス・ハ』の主人公も地下鉄構内でオシッコしてしまうような自由さがあったが、『レディ・バード』の主人公クリスティンも、母親との意見の対立から走っている車のなかから飛び出してしまうというメチャクチャな女の子だ。
 主人公を演じたシアーシャ・ローナンは、アカデミー賞に何度もノミネートされていてすでにベテランとすら思えるけれど、この作品ではニキビ面を隠すことなく高校生役を演じている。そんなシアーシャ・ローナンの主演作『ブルックリン』は、故郷のアイルランドを離れ、ブルックリンという都会を第二の故郷とすることになる女性の話だったが、『レディ・バード』は故郷の田舎町サクラメントを離れたくてしかたなかった女の子が、実際に離れることになって初めて故郷の素晴らしさを知る話ということになるだろうか。

『レディ・バード』 最後の場面のレディ・バード。メイクが崩れているのは飲みすぎたから。

 この作品の主人公クリスティンは、親への反抗なのか自分を“レディ・バード”という自らが決めた名前で呼ぶことを周囲に求める。しかし最後の場面では、親から与えられたクリスティンという名前を受け入れることになる。
 友人関係も同様で、一度は日焼けしたカッコいい女の子ジェナ(オデイア・ラッシュ)と親しくなり、以前からの親友でぽっちゃりのジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)とは疎遠になってしまうものの、最後にはジュリーとヨリを戻すことになる。
 さらには男性関係も同様だ。最初の彼氏であるダニー(ルーカス・ヘッジズ)は実はゲイだったことが判明し、次の彼氏カイル(ティモテ・シャラメ)とは初体験までするものの彼が嘘つきであることがわかって幻滅する。結局はセックスよりもオナニーのほうがよかったというのも、色々体験して元のところのよさを知るということだろうか。

 それはともかくとしてこの作品でよかったのは主人公レディ・バードと母親マリオン(ローリー・メトカーフ)の関係性だろう。いつも対立しているようでいて、愛情を求めてもいる。女性監督だからこそ描ける母と娘の微妙な関係で、それを具体的に説明することはなかなか難しい。視点は主人公であるレディ・バードのほうにあるのだけれど、時にその視点が母親側に移行する場面もあって、どちらの気持ちもよくわかる。女性がこの作品を観れば色々と共感できたり身につまされたりすることが多いんじゃないだろうか。
 サクラメントをドライブする場面では、ふたりの姿が重ね合わされるように編集されている。ここでは母と娘は違う人間ではあるけれど、同一性を持つ存在のようにも感じられた。母と息子、父と息子の関係だったらそんな感覚は妙なものとなるはずで、母と娘という関係性には独特なものがあるのかもしれないなどと感じた。

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Date: 2018.06.02 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (1)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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